柳の下の宝物
                                
 紅王朝最大の港町・金陵(きんりょう)を貫く中大路は、夕    
方になって一段と賑わいを増しつつあった。
 幅広な大路を無数の人が往来し、巻き上がる土埃が西の空に    
沈みゆく太陽を霞ませる。
 露店には色々な品物や食品が並び、行商人たちが声を張り上    
げて客を呼び込む。
 大陸の東側に覇を唱える大王朝の活力が、下々の人間にまで    
染みわたっているのを実感させる光景だったが、大路の隅を歩    
く青年は例外だった。
 すらりと背が高く、顔だちも決して悪くない。
 色街を歩けばそれなりの女性が近寄ってくる程度には整って    
いたが、身なりはみずぼらしく、手には大きな荷物を下げてい    
た。
「はあ……。どうなってるんだ……?」
 荷物の重さに負けたかのように大きく肩を落として、青年こ    
と黄万梓(こう・ばんし)は溜息を洩らした。
「俺はただ宿に入りたいだけなんだ。なのにみんな断りやがっ    
 て……。俺の後ろに顔色の悪い連れがいるって? そんなの    
 どこにもいないだろ? 俺は郷試を受けに来たんだぜ」
 万梓が受けようとしているのは、紅王朝の官僚登用試験……    
科挙の一部を成す試験だった。
 主な大都市に国立の官僚養成学校の生徒を集めて行われるも    
ので、合格しなければ次の試験に進む事もできない。
 それにも関わらず競争率は五十倍とも百倍とも言われ、無謀    
な試みをする人間の事を「準備もせずに郷試を受ける奴」と例    
えられる程だった。
「困ったな……。明日は早いっていうのに。こうなったらどこ    
 でもいいから潜り込むか」
 ぼんやりと立ち尽くしている場合ではなかった。
 万梓は中大路を折れると、横道を西の方向に向かって歩き始    
めた。
 大路を外れた所にある宿屋なら少しは状況は変わるだろうと    
根拠の無い楽観論に背中を押されたからだったが……。
 今度は肝心の宿屋が見つからなかった。
「そろそろ日も沈むな。ったく、これじゃまた試験に落ちてし    
 まうかもな……」
 港町・金陵を縦横に貫く運河のほとりまで来て、万梓は再び    
足を止めた。
 大きな柳の木に寄りかかって溜息をつく。
 一年で一番気候の穏やかな秋の半ばだったが、荷物を抱えて    
歩き回ったのでかなり汗をかいていた。
「もう二回も落ちてるからな……。金も無いし、今度駄目なら    
 諦めるしかないか。でも……」
 普段は温厚な万梓だったが、人生を懸けた試験の準備を邪魔    
されて、苛立ちは頂点に達していた。
 その諸悪の根源は……。
「ええいっ。誰だ! 俺の後ろにつきまとってるのは! そん    
 なに俺の郷試を邪魔したいのか!」
「別にそういうわけじゃないのよ〜」
 運河で小舟を操る船頭も驚きそうな程の大声に応えたのは、    
おっとりした妙齢の女性の声だった。
 聞くだけで和んでくる優しい声に、答えを期待していなかっ    
た万梓の怒りは夕空の向こうに吹き飛ぶ。
「だ、誰だ……?」
「私よ、私。お初にお目にかかるわね〜」
 垂れ下がる柳が風も無いのに大きく揺れた。
 葉と葉が触れ合う乾いた音と共に姿を現したのは……。
 艶のある長い黒髪を大きな簪(かんざし)で結い上げた若い    
女性だった。
 血色のいい肌は茹でた卵のように張りがあり、小さく形のい    
い唇には鮮やかな朱が引かれている。
 白を基調とした着物もよく似合い、まずは申し分の無い美女    
だった。
 但し、上下は逆さまで、持ち上げた両手を手首の先からだら    
りと下げていたが……。
「うらめしやー……と言う場面かしら? やっぱり」
「は、はは……。えっと、その……君は……?」
 相手が人間ではなく幽霊だと分かって腰が抜けてしまった事    
もあって、万梓は声を震わせて問いかける。
「私? 私のことはそうね……白糸と呼んで。<雪姫流転>に    
 出てくる忠誠心厚い侍女の名前だけど。好きなのよね」
「白糸? 本名は?」
「名前に意味なんて無いわよ。どうせ貴方に直接会うのは初め    
 てなんだから〜」
 そう言って、謎の美女……白糸は微笑んだ。   
 おっとりとした中にも気品の感じられる極上の笑顔だったが    
逆さまになっているので魅力も半減だった。
「えっと、その……。君は幽霊だな? そして……今日俺につ    
 きまってたのも君なんだな?」
「ご名答。さすが将来の大臣様は違うわね〜」
「大臣……様? 俺が?」
「決まってるじゃない。貴方は今回の科挙に合格して、栄華を    
 極めるんだから」
 万梓の多少整った顔から、少しずつ恐怖が消えていった。
 実際の幽霊に会ったのは初めてだったが、話には何度か聞い    
た事があった。
 幽霊や妖怪変化には未来を見抜く力が備わっており、その予    
言は必ず当たると……。
「そ、そうなのか……。俺は今回合格できるんだな? しかも    
 大臣になるというのか? もし本当なら親父やお袋がどれだ    
 け喜ぶか……」
「ふふ。親孝行なのね。ますます気に入ったわ〜。でもね、一    
 つだけ条件があるのよ」
「……なんだ? その条件っていうのは」
「別に難しい話じゃないわ。私に協力して、復讐してほしいだ    
 けなんだから」
                                
 復讐の二文字が出た瞬間、万梓の顔から喜びが消えた。
 白糸がきょとんとするよりも早く、冷たく言い切る。
「それなら駄目だ。この話は無かった事にさせてもらう」
「ち、ちょっと待って……。私に協力してくれれば貴方は絶対    
 科挙に合格できるわ。そして、栄華を極めて安らかに一生を    
 送れるわ。それなのに……」
「そんなずるをして何になるっていうんだ。俺は実力だけで勝    
 負したいんだ」
「堅物」
「膨れても無駄だぜ。他を当たってくれ」
 ぷっと頬を膨らませて、白糸が抗議しても青年の心は揺るが    
なかった。
 それどころか、踵を返して歩き出そうとするので、柳の下の    
幽霊は慌てて万梓の前に立ち塞がる。
「おいおい。話は終わったって言ってるだろ?」
「私は終わってないわよ。そうね……だったらせめて私の話を    
 聞いて。それから決めてもいいわ」
「そんな暇は無い。俺は宿を探さないといけないんだ」
「あーいいわよいいわよ。そこまで言うんだったらずっと貴方    
 の後ろでこーんな顔してあげるから。私の恨めしい顔は恐い    
 って幽霊仲間でも評判なんだから」
 ふわりと長い髪を翻した瞬間。
 白糸の顔が変化した。
 いや、化けたというべきかもしれなかった。
 さっきまでの優雅な美しさはかけらも無く、墓場から直接這    
い出てきた女殺人犯のような凶相だったからである。
「恨めしや……。人の話も聞かないなんて……」
「う、わ、分かった……。分かったら話は聞く! その顔だけ    
 は止めてくれ! ゆ、夢に出る……」
「分かればいいのよ〜。分かれば」
 ほんの一瞬の内に凶悪極まりない顔が消えた。
 元のおっとりとした美人に戻って軽く微笑んでみせたが、万    
梓は再びその場に腰を抜かしていた。
「あらま。……意外と怖がりなのね」
「あれを見て怖がらないのは頭がいかれた奴ぐらいだぜ。本当    
 はあんな凶悪な顔してるんじゃないよな?」  
「失礼ね。こう見えても陽成様の屋敷では一番美人な侍女で通    
 ってたのよ〜」
「陽成……?」
「あら、もしかすると知り合い?」
「……まさか、祭北州の周陽成のことか?」
「そうよ」
「陽成は俺の親友だ。まさか、あいつの屋敷にいたのか?」
 白糸が一つうなずくと、万梓はまるで南方の珍しい生き物で    
も見るような目で幽霊となった美女を眺め回した。
 頭の中で必死になって記憶をひっくり返しているようだった    
が、やがて大きな溜息と共につぶやく。
「……おかしい。見覚えが無い。陽成の屋敷には何度も行った    
 事があるんだ。君ほどの美女なら知らないはずはない」
「それは当然じゃないかしら?」
「どういう意味だ?」
「私は陽成様の屋敷に仕えてわずか一カ月で死んだからよ」
「そういう事か。……しかし、陽成も不幸だな。君みたいな侍    
 女を一カ月で失うなんてさ」
「……。本当に、そう思ってる?」
 すっと白糸が目を細めた。
 言外に底知れぬ悪意を感じ取り、万梓は身体を震わせた。
 唇が乾いて、うまく言葉が出てこなかったが、親友として必    
死になって言い訳する。     
「陽成は……身分は高いが悪い奴じゃない。俺のような貧乏人    
 とも平等に付き合うし、気前もいい。今回の旅費だって貸し    
 てくれたんだ。あいつもこの街で郷試を受けるのに……」
「ふーん。貴方はそう思ってるのね」
「な、なんだその何も知らないくせって言いたそうな顔は。君    
 は何を知ってるっていうんだ?」
「郷試を受けるっていうのに意外と物覚えが悪いのね。私はさ    
 っき何て言ったかしら?」
「復讐……まさか、その相手は……陽成だっていうのか!」
 目がまったく笑っていない状態で、白糸は微笑んだ。
 続けて放たれた言葉が止めだった。
 私は陽成に殺されて、こんな姿になったのよ、と……。