落陽迷図(らくようめいず)

                            

 家の外では、激しい嵐が吹き荒れていた。

 大粒の雨は屋根を貫く程に容赦なく叩きつけ、颶風は質素な

建物を土台ごと倒しそうな勢いで暴れ回る。

 その度に、建材の軋む不気味な音が暗闇に包まれた部屋に響

き渡って不安を増幅していく。

「胡同(こどう)に落ちる落陽の影踏みしめて わたしは風の

 奥へと歩いていく 手には杏(あんず)の小枝……」

 それでも。

 小さな部屋の片隅にある寝台に横になったまま、杏々(きょ

うきょう)は静かに歌っていた。

 一見すると、人形のような少女だった。

 雪のように白い肌に黒曜石のように黒い髪と瞳、小さく形の

いい唇にはうっすらと紅が引かれていたが、どこか虚ろな表情

が奇妙な違和感を呼び起こさずにはいられない。

 華奢な全身は薄い布で覆い隠されていたが、小ぶりな胸の当

たりが微かに上下するだけで、まるで縛られたかのように動こ

うとはしなかった。

 しかし、少女は歌い続ける。

「迷図は黄昏の織りなす幻影 それでもわたしは歩いていく 

 杏の枝が導いてくれるから……」

 薄い壁や屋根だけを隔てた外界で繰り広げられている風雨の

狂宴に対する脅えからではなかった。

 虚無を象ったような表情の奥で。

 少女は嵐の後に思いを馳せていたからだった。

「あなたはきっとどこかにいる だからわたしは歩いていく 

 落陽迷図 それは遠い昔からの約束 落陽迷図……」

 一曲歌い終えて。

 杏々は唇を結ぶと、静かに瞳を閉じた。

 静けさが戻ってくると家の外で吹き荒れる秋の嵐があらゆる

感覚を刺激したが、恐怖は感じなかった。

 この部屋にいる限り安全だと知っていたし、朝になれば天気

は回復して、<行動>を起こせると確信していたからだった。

 落陽迷図 それは遠い昔からの約束……。

 深い眠りに落ちる直前。

 杏々の唇がわずかに動いて、声にならない言葉を紡いだ。

 まだ見ぬ<誰か>に呼びかけるかのように……。

                            

 紅王朝の副都であり、随一の港町でもある金陵に久しぶりの

秋の青空が広がったのは、大嵐が吹き荒れた翌日の事だった。

 雲一つない美しい空だったが、その真下で。

 陸漢桂(りく・かんけい)は一人で屋根の修理をしていた。

 歳は二十歳前後だろうか。

 大柄な体を深紺色と白でまとめた地味な着物で包み、頭には

同じ色の布を無造作に巻いている。

 顔だちには歳不相応な幼さが残り、どこか大人になりきれな

い少年のような雰囲気を漂わせていたが、上半身が半分裸なの

で余計にやんちゃな印象を強めていた。

 ったく、なんでこんなに天気がいいっていうのにオレは屋根

の修理なんかしてるんだ?久しぶりにぶらぶらしようと思って

たっていうのに……。

 金槌を持つ手を休めて。

 漢桂は肩を落として大きな溜息をついた。

 この季節には珍しくないとはいえ、大嵐は金陵の街にかなり

の被害をもたらしていた。

 屋根の上から見ただけでも、倒木が道を塞いでいたり、運河

からあふれた水で洪水になっていたり、建物の一部が損壊して

いたり……。

 いずれも近所の住民たちが総出で復旧作業をしていたので、

不幸なのは自分だけではなかったのだが、元来根気よく作業す

るのが苦手なので、すっかり飽きがきていた。

 だいたい元馭(げんぎょ)も元馭だぜ。幾らオレたちが二階

に下宿してるからって屋根の修理までただでやらせるんだから

な。あの野郎、今頃本でも読んでいるんだろうな。

 どうにも頭が上がらない<大家>の事を心に思い浮かべなが

ら、くるくると金槌を回す。

 このまま寝転がってしまいたい衝動にかられたが、下手する

と屋根自体が抜けてしまうので止めた。

 あー馬鹿馬鹿しい。とっとと終わりにして遊びに行くか。姉

貴に付き合ってると<奉仕活動>ばかりだしな。それに、妙な

<夢>も見たからな。

 薄い壁の外で激しい嵐の吹き荒れた昨夜。

 漢桂が見た夢はあまりに奇妙なものだった。

 不気味なぐらいに赤い黄昏に包まれた小路に、まるで人形の

ような少女と向かい合っていたからだった。

 どのような会話を交わしたのかは覚えていない。

 ただ、少女の底知れぬ闇のように黒い瞳は脳裏から離れそう

になかった。

 くそっ。嫌な事を思い出したぜ。とっとと終わりにして逃げ

出すとするか。とにかく、姉貴に見つからない内に……。

 大家以上に頭の上がらない同じ血を分けた姉の顔を心に浮か

べながら、修理を再開しようとした時だった。

 突然後頭部に何かが命中したので、驚きのあまり屋根から落

ちそうになってしまった。

「な、何だ!?」

「さぼってないできりきり働く!のんびりしている暇なんか無

 いの!」

 両手で辛うじて屋根にしがみつくと、今度はやや低いながら

もよく通る女性の声が耳を打った。

 ゆっくりと首を動かしてみると、屋根に掛けた梯子から姉の

木蘭(もくらん)が身を乗り出していた。

 弟とは対照的に、朱色と白を基調とした着物姿で、長い髪を

流行の型に結い上げた妙齢の美女だったが、眉間に皺を寄せた

怒りの表情ではせっかくの魅力も台無しだった。

「あ、姉貴……。出かけたんじゃ……」

「柿を貰って帰って来たの!悪い?」

「……オレの頭にぶつけたのはその柿かよ」

「ぼんやりしてるから悪いの!とっとと終わして奉仕活動に行

 くわよ!信者を増やすいい機会なんだから!」

 そう言いながら。

 木蘭は軽やかな動作で屋根に上がってきた。

 着物の裾からすらりとした足が一瞬むき出しになり、目のや

り場に困った弟は慌てて視線をそらす。

「今日は止めた方がいいぜ。誰もオレたちの話なんか聞いてく

 れないぜ」

「馬鹿。話より行動よ。復旧作業を手伝って同時に教えを広め

 るの。きっとうまくいくわ」

「……そう言ってうまくいった試しがないのは気のせいか?」

「何か言った?」

「い、いや。それより姉貴も手伝ってくれよ。この屋根、穴だ

 らけだぜ」

「手伝いのは山々だけどあたしは遠慮しとくわ。大嵐でも無事

 だった屋根を自分の手で壊したくないわ」

「……」

 木蘭の<力>をよく知っている漢桂は何も言わずに作業を再

開しただけだった。

 金陵……いや、広大な紅王朝でもわずかな数しか信者のいな

い洸洸(こうこう)教の巫女でもある姉は、自他共に認める王

朝随一の怪力の持ち主だったからだった。

「それにしても、酷い嵐だったわね」

 せっかく近所で貰った柿が渋抜きされていなかったので、負

けないぐらいに渋い顔をしながら木蘭はつぶやいた。

「道の半分は塞がってるし、建物の屋根が吹き飛んだ家もあっ

 たし。こういう時に手伝えばあたしたちの株も上がるのに」

「だったら姉貴だけで行ってきたらどうだ?オレはここの修理

 を済ませないと動けないぜ」

「駄目。水神様は全て見ていらっしゃるわよ」

 布教活動に不熱心な弟を諭すように、木蘭が言い切ったその

時だった。

「木蘭さん。修理の方はどうなってますか?」

 軽やかな足音と共に、一人の青年が梯子を上がってきた。

                            

 屋根の上まで来たのは、姉弟の住む下宿の大家であり、小さ

な書籍店の主人でもある蔡元馭(さい・げんぎょ)だった。

 少し崩した着物姿に、長めの髪を後ろで無造作に束ねている

ので飄々とした感じを漂わせていたが、外見と性格が一致して

いない事を二人はよく知っていた。

「あら、修理してるのはあたしじゃなくて漢桂の方よ」

「急かすなよ。そんなにすぐには終わらないぜ。かなり大きな

 穴が開いてるからな」

「よりによって弟君の方ですか。まったく、屋根を壊さなけれ

 ばいいのですが」

 少し目を細めながら言うと、元馭は計ったように木蘭のすぐ

隣に腰掛けた。

 むっとしたような表情を浮かべて、水神の巫女はわずかに体

を動かす。

「オレ以外誰が修理できるっていうんだ!?お前は間違ってもや

 るわけねえし、姉貴じゃ本当に屋根をぶち破るし。そもそも

 なんで下宿人に修理なんかやらせるんだ!」

「下宿代を滞納している以上、当然です」

 漢桂の顔を正面から見据えて、大家の青年は断言した。

 冷酷な事実に、姉と弟は顔を見合わせて溜め息をつく。

「あなた方の布教活動が上手くいっていない事はよく知ってい

 ます。ですが、私も大家である以上、請求しなければなりま

 せん。これは古からの真実です」

「たかだか家賃の事でそんな大袈裟に言うな!」

「私も生活がかかってるのですから当然です。ですが、この修

 理が無事終わったならば一カ月分はまけてあげます」

「漢桂!何をぼんやりしてるの!?修理修理!」

「……姉貴も姉貴だぜ。すぐに丸め込まれるんだからな」

 ぶつくさ言いながらも、漢桂は再び手を動かし始めた。

 元馭の魂胆は見え見えだった。

 巧みに押したり引いたりを繰り返す内に、姉・木蘭の心を完

全に掴もうとしていたからだった。

 そうは問屋が下ろさないぜ。姉貴はお前の事なんかまるで眼

中にないからな。……ただ、それだとオレが困るんだけどな。

 自分たちの複雑な関係に気づいたのは、いつ頃だろうか?

 気がつくと行動や会話は、全てその<関係>に支配されてい

たのだった。

 まったく、どうしてこうなるんだ?水神様の思し召しにして

は酷過ぎるぜ。

「どうやら何とかなりそうですね。滞納している家賃から一カ

 月分引いておきますよ。それでは、私はこれで。木蘭さん。

 落ちないように気をつけて下さいね」

「あなたこそ梯子から落ちないようにね」

 つっけんどんな態度にも笑みを返すのを忘れず。

 元馭は梯子を降りていった。

 穏やかな秋の風が、屋根の上の姉弟の間をゆっくりと吹き抜

けていく。

「なあ、姉貴。いい加減下宿替えないか?このままだといつま

 でも陰険大家の言いなりだぜ」

「ここ以外に安く住む下宿があるならね。でも無いのよね。信

 者にも頼んでるけど、見つからないって」

「そうだよな……。でも、このままだと……」

 いつまでも変わらないぜ。

 ふと、そう言いかけた時だった。

 中空の太陽を一瞬だけ遮って、一羽の小鳥が姉弟の間に舞い

降りてきた。

 雀を一回り大きくして、より長く立派な尾を付けたような鳥

だった。

「嵐で迷った鳥かしら?」

「さあな。でも珍しいな。初めて見るぜ、こんな鳥」

 軽く切り返しながらも、半ば反射的に漢桂は手を差し出した

が、不思議な鳥は飛び跳ねるように離れた。

「嫌われてるわね。がさつなのを見抜かれたのね」

「うるせえ。姉貴だって人の事は言えねえだろ?」

「あら?あたしはいつも品行方正よ」

 巫女なのにも係わらず、平然とうそぶいた木蘭だったが、小

鳥と目線が合った瞬間。

 漆黒の泥のようなものが心の中で蠢くのを感じた。

 ……なに?今のは。<警告>?それとも……。

「わたし、<家>に囚われてます。助けて下さい」

 考えをまとめる為の言葉を探すよりも早く。

 甲高い少女の声が突然耳に飛び込んできた。

「わたし、南東角に桃の木ある<家>にいます。わたし動けま

 せん。誰か助けて」

「……まさか、鳥がしゃべってるの?」

「違う。言葉を覚え込まされてるだけだ。噂で聞いた事がある

 ぜ。南方には人の言葉を覚える鳥がいるってな」

「わたし、<家>に囚われてます。助けて下さい」

「どういう意味なんだ?家族の誰かに虐待されてるのか?」

「違うわね。だったら具体的に言うわよ」

「わたし、南東角に桃の木ある<家>にいます。わたし動けま

 せん。誰か助けて」

「中衛(警察)に届けるか?」

 厄介事に巻き込まれそうな予感に、漢桂は頭に手をやりなが

ら提案する。

「馬鹿。それじゃ意味無いじゃない。この<事件>はあたした

 ちが解決すべきよ。解決すれば少しは名が売れて、信者だっ

 て獲得できるかもしれないじゃない」

「教えと事件は関係ないような気がするけどな」

「だったらあんたは屋根の修理でもしてなさいよ。あたしは行

 くわよ。困ってる人を見逃したら水神様に申し訳が立たない

 じゃない!」

 言い切るのと同時に。

 元来直情的な木蘭は着物の袖や裾をふわりと翻して、屋根か

ら下りて行ってしまった。

 姉とは違う意味で嫌な予感を覚えていた漢桂は金槌を手にし

たまま、秋の青空と謎の小鳥を見比べていたが、やがて。

 「水神様の名前を出されて放っておけるかよ!」とつぶやく

と俊敏な動作で姉の後を追って行ったのだった。

                            

 巫女とその弟が動き出したのを鳥の<目>で確かめて、杏々

は口の端だけでほくそ笑んだ。

 かかったわね。わたしの愛しい人。久しぶりに見つけたわ。

今度こそ、わたしと<永遠>に生きられるかも。

 ゆっくりと、手にする杏の小枝を揺らす。

 彼女が望むのはたった一つ。

 自分と共に歩み続けてくれる人のみ。

 人間は、儚過ぎるわ。すぐに朽ち果てて死んでいく。だから

わたしはいつも独りぼっち。

 一人で生き続けるのは嫌だった。

 どんな手段を使ってでも、共に生きる人が欲しかった。

 あなたはきっとどこかにいる だからわたしは歩いていく 

 落陽迷図 それは遠い昔からの約束 落陽迷図……

 いつしか。

 杏々は心の中でいつもの歌を口ずさんでいた。

 <自分>という存在の意味を確かめ直す為に。

 新たな出会いに期待している為に……。