夢幻義経記−むげんぎけいき−

                                

「源義経は……どこで命を落としたのかしら?」

 まるで独り言のようなつぶやきに、台本に目を通していた中    

条(ちゅうじょう)和子は弾かれたように顔を上げた。

 すぐに同室の先輩……岩井綾乃(あやの)と目が合う。

 財閥家の令嬢は、視線に気がつくといつものようににっこり    

微笑んで答える。

「ちょっとした独り言よ。気にしないで」

「綾乃さま。義経は中国大陸で死んだと思います。この本にも    

 書いてありました。義経は成吉思汗(ジンギスカン)である    

 以上、モンゴルでその波瀾に満ちた生涯を終えたと……」

「<成吉思汗ハ源義経也>ね。私はまだ読んでいないのよ」

「お読みになった方がいいと思います。この学校でもほとんど    

 の生徒が目を通しているはずです」

「そうね。でも、今は劇の練習が先でしょう?台詞はもう覚え    

 たのかしら?」

 鈴を転がすような可憐な声ながらも。

 まるで日本人形のように気品溢れる美少女である綾乃に諭さ    

れて和子は反論する術を失った。

 ここ聖マリア女学院の学園祭は約一カ月後に迫っていたが、    

物覚えにあまり自信の無い和子は未だに全部の台詞を覚えてい    

なかった。

 劇の演目は女子校とは思えない「義経記(ぎけいき)」。

 学園随一の美貌の持ち主と言われる綾乃が義経を演じ、同室    

の少女は義経に近従する少年の役を演じる事になっていた。

「済みません。まだです……」

「ならば練習した方がいいわね。あなたはとても大事な役を演    

 じるのですから」

 それはわかってるんだけど……。

 台本に目を落として、和子は心の中だけで反論した。

 義経役が綾乃さまというのは分かる。

 それなのになぜ、<山猿>と陰口を叩かれる事もある田舎者    

の自分が近従の役なのか。   

 話によると綾乃さまが珍しく強引に押し通したからだそうだ    

が、意図は分からないままだった。

 尋ねても答えてくれないし……。そんなにわたしの事が気に    

入ってるのかしら?ただの同室なのに。

 台本を閉じて、綾乃が立ち上がった。

 まるで<優雅>という言葉のお手本を見るかのような一連の    

動作に和子はつい見とれてしまう。

「少し一階の食堂でお茶を楽しんできます。それまでに昨日覚    

 えていなかった台詞を覚えなさいね」

「わかりました」

「あなたには……期待しています」

 劇の練習を初めてから何度となく聞かされてきた台詞を残し    

て、令嬢は癖一つ無い黒髪を揺らしながら部屋を後にした。

 その後ろ姿を見送った和子だったが、やがて台本の台詞を読    

んでは暗唱する練習を始めたのだった。

                                

 今から約一年前の大正十三年秋。

 小谷部(おやべ)全一郎なる歴史学者が書いた「成吉思汗ハ    

源義経也」という本が出版された。

 題名の通り、源義経は衣川で死なず、蝦夷(北海道)を経て    

中国大陸に渡り、成吉思汗になったという<学説>だった。

 あまりにも歴史的根拠に乏しい珍説に、学会の碩学たちは一    

様に激しい反論を浴びせかけたが、市井の人たちは<夢に満ち    

た>その学説を信じた。    

 一時はかなり盛り上がった大正デモクラシーは弾圧されて勢    

いを失い、二年前に起きた関東大震災が追い打ちをかけるよう    

に人々の心を閉塞させていたからだった。

「でも、浪漫(ロマン)があるじゃないですか。あの義経が死    

 なないで大陸に逃れて、成吉思汗になったなんて……」

 就寝前の自由時間。

 窓のカーテンを引きながら、和子は控えめに同室の<姫君>    

に反論した。

「そうだとすれば、義経は兄・頼朝に裏切られた恨みを果たせ    

 たんですね。人望も厚くて素晴らしい武将だったのにあんな    

 目に遭ったんですから」

「あなたは本当に義経が好きなのですね」

「はい。元々わたしの家は義経に縁のある神社ですし」

「会津の中条神社だったかしら?少し調べてみたらなかなか格    

 の高い神社だとか」

「まあ、古いことは古いですから……」

 自分の机に向かう令嬢を見ながらベッドに腰かけて、和子は    

言葉を濁した。

 そんな神社の娘がカトリックの全寮制女子校に入学できて、    

日本有数の財閥家の令嬢と知り合った事が、未だに不思議でな    

らなかった。

 綾乃さまに言わせれば、この学校は成績さえ良ければ入れる    

って言うけれど……。周りがお嬢様ばかりだから肩身が狭いの    

よね。わたしなんか所詮<田舎の山猿>だし。

 内心ふて腐れてように考えていると、綾乃が席を立った。

 艶やかな髪を束ね始めたので就寝する事にしたのだろう。

 すでに夜も更けて、少し寒くなってきた。

「もう、寝た方がいいんじゃないんですか?明日からはいよい    

 よ舞台稽古ですから忙しくなりますし」

「あなたと共演するのはとても楽しみね。一度じっくりと向か    

 い合ってみたかったの」

 綾乃の返事は、いつものお嬢様言葉ではなかった。

 少しくだけた時に<本音>が混じる事が多いので、和子は内    

心身構える。

「あなたは自分では気づいていないけれど、驚くような力を秘    

 めているわね。神社の家に生まれたのだからその影響もある    

 のかもしれないけれど、そういう点でも惹かれるの」

 予言のように難解な言葉だった。

 反射的に背筋を伸ばし受け止めた和子だったが、意味がわか    

らず内心首をかしげる。

「今のは私の独り言です。あまり気にしなくてもいいわ」

「……。綾乃さまがそう言われるならば」

 同室の令嬢の言葉遣いが元に戻ったので、緊張を解いて和子    

は答えた。

 桜の季節に出会ってから半年が経っていたが、立ち振る舞い    

だけで他者を圧倒する存在感には、未だ慣れていなかった。

 やがて、二人の少女は言葉を交わさないまま就寝準備を終え    

ると、どちらともなく床に就いた。

 暗闇と静けさが部屋を包み込み、揃って夢の中へと落ちてい    

くのだった……。

                                

 ふと気がつくと。

 和子は故郷の会津を思わせるようなのどかな景色の中を歩い    

ていた。

 季節は春頃だろうか。

 草木の若々しい匂いが鼻を刺激する。

「もう春ですね、九郎様」

 <自分>の口から紡ぎ出されたのは、少女を思わせる少年の    

声だった。

 不思議な事に、学園祭で自分が演じる少年とまったく同じ声    

だった。

「そうだな。私(わたし)も今の時期が一番好きだ。煩わしい    

 事も少しだけ忘れられる事ができる」

 自分の立場を理解するよりも早く、中性的な響きの若い男性    

の声が耳を打って、和子は心の底から驚いた。

 自分のすぐ隣を歩いているのは、源九郎義経その人だった。    

 しかも、綾乃が演じる義経そのままの声と姿の……。

「今後どうすればいいのか、最早私にも分からぬ。ただ確かな    

 のは泰衡(やすひら)殿が完全には味方とは言えぬ点だ」

「そんな……。泰衡様は九郎様を匿い続けるはずです。鎌倉に    

 対抗するにはそれしか手段が無いんです」

「そうだといいのだがな。もし私の見立てが正しければ、いつ    

 か私は泰衡殿に攻められる事になるだろう」

 綾乃の顔をした義経の言葉に、和子は足を止めた。

 まるで貴族の女性のように美しい主君に反論する。

「何をおっしゃられるんです。分かっているならばなぜ逃げな    

 いんです?ここから北に行けば鎌倉の力も及ばない蝦夷地が    

 あります。そこまで逃げればきっと再起は図れます」

「そうかもしれぬ。しかし、私は多くの事をしてきた。ここで    

 命尽きるならばそれが天命かもしれぬ」

「九郎様らしくもない。なぜ諦めるのです」

 義経は微笑したまま、何も言わなかった。

 全てを悟りきった人間だけが見せる、透明な笑み。

 まるで自分の最期すらも知っているような、儚い笑み。

「俺は諦めません。九郎様ほどの人をここで死なせたりはしま    

 せん。まずは蝦夷地へと向かうべきです。そこでも満足でき    

 なければさらに別の土地へ向かえばいいのです」

「泰衡殿も言っていた。西海の向こうには広大な大陸があり、    

 多くの人たちが暮らしていると。しかし、私はこの国に生ま    

 れた者。散るならばこの国で散りたい」

「九郎様!」

 和子の呼びかけにも、返事は無かった。

 それどころか、少しずつ目の前の主君の姿がぼやけていく。    

 それは違います。九郎様……綾乃さま。義経は平泉で死んだ    

りしていません。大陸に渡って成吉思汗になったんです。どう    

してそんな事を言うのですか?……綾乃さま……。