小雨と紫陽花

                                

 緑豊かな山の稜線が、白い霧でかき消された。

 蕃丞(ばんじょう)帝国の西・天仰山脈の麓にある藍湖(あ    

いこ)の街は、朝から降り続ける小雨に濡れていた。

 天仰山路に立ち並ぶ西藍造りと呼ばれる軒先が張り出した木    

造の建物も霧に紛れ、道の果ては白く霞んでいた。

「……。どうしたらいいのかしら?」

 大きな軒先越しに薄灰色の空を眺めながら、少女は自分にし    

か聞こえない程小さな声でつぶやいた。

 漆黒の髪に黒曜石を思わせる瞳を持つ可憐な少女だった。

 紫陽花を象った花衣で細身の体を包み、頭には小さな帽子を    

乗せてやはり紫陽花の一花を飾っている。

 まるで花そのものから抜け出してきたような雰囲気を漂わせ    

ていたが、その横顔には憂いが浮かんでいた。

「こんなに沢山の荷物を一人で山頂まで運ぶなんて、とても無    

 理なのに。でも、今日でないと……」

 小さく肩を落とすと、傍に置いた荷物に目を向ける。

 この宿場町で必要な物を買い揃えたのは良かったが、最初に    

想像していた量をはるかに上回ってしまった。

 こんな時どうしたらいいのか、少女には分からなかった。

 どうにもならず、反対側に目を向ける。

 軒先の外れには薄紫色の紫陽花が咲いていた。

 この家の持ち主が手入れしているのか、自分の花衣に負けな    

い程美しい姿で霧雨を受け止めていた。

 紫陽花。わたしの<象徴>。なぜならわたしは……。

 不意に、人の気配を感じて少女は目を正面に向け直した。

 視野に入ってきたのは着崩した艶やかな着物。

「あら?こんな所で何をしてるの?名前は?」

 少しばかりの揶揄と多くの同情が秘められた女性の声が耳に    

入ってきて、少女は顔を上げた。

 もしかすると、この人なら何とかしてくれるかもしれない。    

 なぜか確信があった。

                                

 自称<藍湖一の荷上げ屋>こと龍柾(たつまさ)は、天仰山    

路に面した自分の家で腐っていた。

 昨日に続いて、今日も朝から客が来なかったからである。

 おいおい、勘弁してくれよ。あと三日もこんな状態が続いた    

ら飢え死にだぜ。俺はまだまだ死にたくないつうのに……。

 恥も外見も無く、机に突っ伏す。

 やや長い黒髪の後ろ半分を白い布で覆い、飾り気一つない半    

袖の着物を着流した青年だったが、発達した筋肉と浅黒い肌が    

精悍さを演出している。

 実際、藍湖では一番力が強いと認められていたが、それでも    

商売があがったりなのは……性格に難があったからだった。

 とにかく口が悪く、たとえ依頼人が上流階級の人間でも<い    

つもの調子>で相手してしまうので客が来ないのだった。

 こう見えてもしくじった事は一度も無いんだぜ。仕事は俊敏    

かつ完璧に。腕は確かだっていうのにどうしてこうなるんだ?    

 龍柾は自分の美点をよく知っていたが、欠点はまったく知ら    

ない人間だった。

 だからいつも困っているのだが、もちろん本人はその事に気    

づいていない。

 しゃあない。客が来るまで少しぶらついてくるか。

 結局、いつもの行動に出ようと立ち上がった時だった。

「済みません、龍柾さんはいらっしゃいますか?」

 開け放ったままの出入り口から少女の声が聞こえてきた。

 慌てて視線を動かすと、扉の影に小さな人影が見えた。

 歳はおおよそ十五、六だろうか。

 漆黒の長い髪を下ろし、紫陽花の花衣を着た少女だった。     

 表情には緊張が浮かんでいたが、貴族の娘を思わせるような    

品のよさも同時に感じられた。

「ああ。何だ?荷物の引上げか?」

「はい。観音山の山頂まで運んでもらいたい物があるんです」    

「観音山か……。相手にとって不足無し。引き受けるぜ」

「ありがとうございます!」

 満面の笑みを浮かべて、少女は頭を下げた。

 男独り暮らしのむさ苦しい空間が浄化されるような明るさに    

さすがの龍柾も内心戸惑う。

「礼なんていらねえぜ。で、何を運ぶんだ?」

「ここに置いた荷物です。わたし一人ではちょっと無理なので    

 お願いします」

「どれ、さっそくブツを拝見……って、おい。嬢ちゃん」

「嬢ちゃん、ってわたしの事ですか?」

「お前さん以外誰がいるんだ?」

「そうですね。……済みません」

 ぺこりと頭を下げられて、龍柾はこみ上げてきた感情の行き    

場を失ってしまった。

 一瞬だけ、天仰山脈に棲む大猿人が怒ったような表情を浮か    

べると、溜息混じりに説明する。

「これだけの荷物、さすがの俺でも厳しいぜ。まさか嬢ちゃん    

 一人で運ぶ気だったのか?」

「もちろん無理です。でも、ある人が あなたの事を教えてく    

 れました。あなたならきっと運んでくれるとか。頼りにして    

 ます」           

「そのまるで邪気の無い笑顔は止めてくれ。俺はそういうのが    

 苦手なんだ」

「そうだったのですか……。済みません、気をつけます」

 再びぺこり。

 笑ったかと思うと真面目な顔で反省したりと、やたら表情が    

変わるので龍柾は正直かなり困惑していた。

 調子狂うな……。しかし、やりがいはある。よし、一丁いい    

とこ見せてやるか!……でもその前にだ。

「ところで嬢ちゃん。俺の流儀は知ってるな?俺はあれを見な    

 いと一歩でも動かない人間なんだ。あれだよあれ」

「<あれ>ですか?……はい、お願いします」

 すぐに合点がいったのだろう。

 紫陽花のような少女はにっこり笑うと、小さな巾着袋を取り    

出して、龍柾に渡した。

 待望の収入に、荷上げ屋の青年は頬を緩めて袋の中身を取り    

出したのだが……。

 すぐに西の果てに棲む伝説の有翼竜が、逆鱗に触れられた時    

のような表情を浮かべた。

「……嬢ちゃん」

「はい。なんですか?」

「これっぽっちの銭で仕事なんか引き受けられるか!とっとと    

 帰れ!」

「帰れ……と言われましても……。これしか持ってません」

「駄目だ駄目だ!俺は一文でも足りなきゃ引き受けねえんだ!    

 出直して来い!」

「そんな……困ります。あなた以外にはこれだけの荷物を運び    

 上げられる人はいないと聞いています。お願いします」

「駄目なものは駄目だ!」

 さっきまで上機嫌だった反動もあって、龍柾は怒り心頭に達    

していた。

 並の人間ならばそれを見ただけで逃げ出してもおかしくない    

程だったが、少女は一歩も引かない。

「本当に、駄目なんですか?」

「駄目だと何度言ったら分かるんだ?とっとと出てけ!」

「そんな……。酷過ぎます……」

 不意に、少女の声が変わった。

 美しい瞳に涙が浮かび、大きく肩を落とす。

「今日しか<機会>は無いんです。でも、無理なら諦めます。    

 いいんです。わたしの日頃の行いが悪いんです……」

「お、おい。ちょっと待て」

「済みません。ご迷惑をおかけしました。では失礼します」

 小さく頭を下げて。

 花衣の少女は踵を返した。

 あまりにも唐突かつ、自らの罪悪感を刺激されるかのような    

一連の行動に、龍柾の怒りは雨空の向こうへと消えていく。

「待てと言ってるだろ!?そこまで言うならば条件がある。一日    

 俺の元で働け。そうしたら夕方になったら引き上げてやる。    

 これ以外の条件は認めねえからな!」

「ありがとうございます!」

 着物の裾をふわりと揺らして、少女が振り向いた。

 さっきまでの涙は幻のように消え失せ、無邪気な笑顔がまぶ    

しい程だった。

「微力ですが一生懸命働きます。よろしくお願いします」

「お、お前なあ……」

「まずはお茶淹れますね。あと、わたしの荷物あそこに置かせ    

 て下さい。邪魔にならなければいいですよね?」

「うるせえ!勝手にしろ!」

 完璧に騙されたとわかって、龍柾はやり場のない怒りに囚わ    

れていた。

 それでも依頼人の少女は最初の目的を達成した事もあって、    

軽快な足どりで小さな台所へと向かったのだった。