地下室の魔王

                                

 西に見える大山脈の奥に向かって、秋の弱々しい太陽がゆっ    

くりと消えようとしていた。

 王都とターマニ地方を結ぶ通称<白骨街道>を歩きながら、    

ローザ=シュマルゼンベルクは小さく溜息を漏らした。

 このままでは、また野宿になりそうだと思ったからだった。    

「勇者トビーアス。少しゆっくり過ぎるのではありませんか?    

 確かに<悪魔の谷>に本拠を置いていた魔王軍は滅ぼしまし    

 た。ですが、まだ報告が残っています」

「そんなに固い事を言うなって、お嬢」

 まるで愛を囁くかのような口調で、<勇者>トビーアス=ゲ    

グランが切り返す。

 背中には思わず息を呑む程巨大な剣を背負い、屈強な肉体を    

アリグ軽量鉄製の鎧で包み込んだ青年勇者である。

 その実力は王国……いや、大陸でも有数と言われていたが、    

かいま見える横顔には茶目っ気すら漂っていた。

「しばらく魔王軍はまともには動けないぜ。副将のガゼルをこ    

 の手で倒したのをあんたも見てただろ?」

「ええ。間違いなく確認しました。そして、<悪魔の谷>から    

 魔王軍が完全に駆逐された事も」

 背中の袋に収めた書きかけの報告書の<重み>を感じつつ、    

ローザは事実だけを告げる。

 ふと気がつくと、黒々とした森の中を抜ける道に少しずつ夜    

の帳が迫りつつあった。

 宿屋のある街までは……あと半日はかかるはずだった。

「だったら問題ないな。<勇者協会>随一の記録員のお墨付き    

 だからな。魔王軍は後半年は動けないはずだよな?」

「……はい」

 短く返事しただけで、ローザは認めた。

 これで勇者トビーアスが道を急ぐ理由は無くなった。

「あんたは何が心配なんだ?こんな辺鄙な道に魔王軍どころか    

 骸骨兵一体出るわけないぜ」

「私は別に心配なんかしていません。ただ、任務が終わったら    

 速やかに帰還するのが協会の規定なのです」

「あんたは本当に真面目だな。二言目には規定だからな。ま、    

 別に嫌いじゃないけどな」

 あなたがいい加減過ぎるんです。

 言いかけて、勇者協会の記録員は口をつぐんだ。

 トビーアスは、近年まれに見るほど卓越した実力を誇る本物    

の<勇者>だった。

 協会に登録され、記録員がその戦いに付き添う程の勇者なら    

ば一人で魔王の軍勢を討ち果たす事も可能だったが、トビーア    

スの場合は特別だった。

 ローザはこの目で確かめ、記録したのだ。

 たった一人の青年によって、<悪魔の谷>に本拠を構えてい    

た魔王軍の副将とその配下の軍勢が滅ぼされるのを……。

「あなたの実力ならば、魔王でも倒せるかもしれません。全て    

 の人たちの長年の夢が、叶うかもしれません」

 ローザの唇から紡ぎ出されたのは、文句ではなく本心からの    

称賛だった。

「そうすれば、私の仕事もおわりです。最後の記録を済ませた    

 ら別の仕事を探す事になるかもしれません」

「……それはどうかな?」

 トビーアスのつぶやきは、子供の素朴な疑問に似ていた。

「魔王軍も必死のはずだ。副将がやられた以上、決死の反撃を    

 試みてくるからな。……それを受け止める実力が俺に備わっ    

 ているか。それが問題だな」

「なぜ……そのような事を言うのです?」

「なぜって言われてもな。俺は思ってる事を言っただけだぜ」    

 勇者の返事は、ローザを満足させたりしなかった。

 周囲を包み込みつつある夕闇の如く、心に不安がこみ上げて    

くるのを感じる。

「はっきり言うぜ。どんな勇者でもいつかきっと負ける時がく    

 る。それが魔王との直接対決の時では無いと誰も言い切れな    

 いんだぜ」

「こんな時だけは能弁なのですね」

「褒め言葉として取っておくぜ」

 厭味は軽口で簡単にかわされてしまった。

 捉えどころのない気まぐれな夏風のようなやりとりに、記録    

員の女性はつい溜息を漏らしてしまう。

 勇者トビーアスの本音はどこにあるのだろうか?

「お、運がいいな。あそこに宿屋があるぜ。今夜はあそこに泊    

 まらせて貰うとするか」

 ローザの考え事は、勇者の言葉で中断した。

 慌てて目を凝らしてみると薄暗くなってきた道の先に、小さ    

な建物と看板が見えた。

「こんな所に宿屋があるなんて……。私の記憶では確か、何も    

 無かったはず……」  

「天の助けだな。酒も飲めるし、足を伸ばして寝れる。さっそ    

 く世話になるとするか」

 再び茶目っ気のある笑みを浮かべると。

 勇者トビーアスは大股に歩き出した。

 疑問と不安を心の中で交差させながら、ローザもその背中を    

追いかけたのだった。

                                

 宿屋の一階は、酒場になっていた。   

 といってもカウンターにテーブル席が三つあるだけのごく小    

さなもので、客は誰もいなかった。

 粗末な明かりも全体を照らし出しているわけでなく、隅の方    

には闇が残っているようだった。

「いらっしゃい。旅の方ですか?」

 トビーアスに続いて足を踏み入れたローザが内部を見回して    

いると、声が飛んできた。

 カウンターに目を向けると、主人らしき中年の男性がグラス    

を磨く手を休めて、曖昧な笑みを浮かべていた。

「ああ。宿はあるか?」

「ございますよ。個室でいいですか?」

「ああ。俺はいつも一人だからな。お嬢はどうだ?」

「私もそれで構いません」

「ならばすぐに準備いたします。しばらくお待ち下さい」

「おっと。その前に酒だ。この店で一番いいやつを頼む」

 カウンター席について、トビーアスは常連客のような顔で注    

文した。

 いつもながらの遠慮の無さに、ローザは内心負の感情がこみ    

上げてくるのを感じたが、主人は愛想笑いを崩さなかった。

 弱々しい明かりのせいでラベルも読み取りづらい棚から慣れ    

た手つきで酒瓶を取り出すと、グラスと共に青年勇者の前に置    

いたからである。

「お、マクニエルか。いい酒があるんだな」

「この店の宝のような酒です。でもまあ、お代さえ払って頂け    

 れば幾らでもお出ししますけどね」

「金なら問題ない。お嬢が払ってくれるからな」

 グラスに高級酒を注ぐトビーアスの横顔は、茶目っ気溢れる    

少年のように無邪気だった。

 それを見ながら、固い表情を崩さないローザも隣に座る。

「……あなた方は、どのような関係なのです?」

「勇者協会に登録した勇者とその記録員です。任務を終えて、    

 王都に戻るところです」

「ほう。それはおめでとうございます。今回はどちらで任務を    

 果たされたのです?」

 好奇心を隠さない主人に、ローザはごく簡単に今回の任務と    

その結果を説明した。

「それは凄い話ですね。たった一人であの魔王軍の軍勢を倒す    

 とは……。大変じゃなかったですか?」

「いや別に。いつもの事だからな」

 美味そうにグラスの酒を飲み干して、トビーアスは自信に満    

ちた笑みを浮かべた。

「俺は好き勝手に暴れた後で、美味い酒さえ飲めれば文句は無    

 い。面倒な事はお嬢が全てやってくれるしさ」

「私は……仕事ですから」

 鼓動が早まるのを感じながら、勇者協会の記録員は答える。    

 たまにだが、トビーアスは全てを見透かすような視線を向け    

てくることがある。

 それが単なる遊びなのか、本心なのかローザには見分けがつ    

かないままだった。

「そうですか……。ならば無理ですかね」

「何か面倒な事にでもなってるのか?報酬次第では考えてやっ    

 てもいいぜ」

「勇者トビーアス!」

「いや。止めておきます。一夜の宿を求めて来た方にする話で    

 はありませんから」

「そう言われると気になるな。何を悩んでいるんだ?」

「ならば話だけでも……。実は、この宿屋の地下には……強力    

 な魔王が住んでいるのです」