第9話−(5)今生の別れ
                                
 最初、何が起きたのかまったく分からなかった。
 しかし、その正体が主人である黒羽であることに気づくと、    
薫は足元の車などを派手に蹴散らしながら駆け寄った。
「ひどい……」
 一目見て、従者の少女は言葉を失った。黒羽はセブンシスタ    
ーズの一角に挙げられる程の実力者のはずだったが、全身に傷    
を負い、苦痛に顔を歪めたまま気を失っていた。
「黒羽様! しっかりしてください! 黒羽様!」
「無駄よ〜。黒羽はもうぼろぼろだから〜」
 この場面で一番聞きたくなかった声が飛んできて、薫は怒り    
と恐怖と共に顔を上げた。
 まだ壊してしなかった街の中心部を堂々と破壊しながら、沙    
耶が腕組みして立っていた。その横には剣を構えた玲もいたが    
なぜ二人がここにいるのか分からず、薫は混乱した。
「何が起きたか分からないようね〜。簡単なことよ。私たちも    
 この箱庭の中に入れるように仕掛けをしておいたのよ。それ    
 だけの話」
「僕や沙耶様がこの箱庭の中で戦った時、隙を見て仕掛けてお    
 いたんだ。まさかまったく気づいてないと思わなかったよ。    
 薫はとにかく、黒羽も鈍いんだね」
 呆れたように玲が言葉を続ける。いつもの子犬のような雰囲    
気はかけらも存在せず、獲物を目の前にした狩人のような怜悧    
さが薫の心に突き刺さる。
「黒羽はね、ここに私たちが乱入しないように必死になってた    
 わ。貴方が妹に勝つようにサポートしたつもりだったかもし    
 れないけど、自分のことは何も考えてないのね〜」
「黒羽様が……」
「貴方の嘘を暴くために身体を張ったから体力が戻っていなか    
 ったのも災いしたわね。ま、狙い通りだったけど」
「え? そんな……」
「黒羽の思考回路は単純だからこの手を使うことぐらい予想で    
 きたわ。準備には時間がかかったけど、こんなにうまくいく    
 なんて思わなかったわね」
 沙耶の言葉に、薫は今までの経緯を全て思い返した。
 もし自分が沙耶を裏切ることまで予定の内だったならば、全    
ては計画通り……。
「やっと気づいたようね。主従揃って本当におめでたいんだか    
 ら。私が簡単に裏切り者を信じると思う? 最初から黒羽の    
 元に戻ることは予想してたわよ〜」
「そういうこと。僕だって薫のことを信じてたわけじゃない。    
 個人的な感情は別としてね」
 口ではそう言いながらも、玲の表情に変化は無かった。
 今まで交わしてきた言葉は全て偽りだったのか、問いかけた    
くなった薫だったが寸前に止めた。自分で自分を傷つけるだけ    
だと気づいたからだった。
「さて、残るは貴方だけね。黒羽はもうぼろぼろだし、貴方の    
 妹も戦える状態じゃないし。この箱庭の中で始末してあげる    
 わ〜。玲」
「はい、沙耶様」
「その役目、貴方に任せたわよ。私は黒羽が動かないように見    
 張ってるから。しっかりやるのよ」
「承知しています」
 一片の揺らぎも見せずに、玲が剣を構えた。攻撃態勢に入っ    
たのを見て、薫も慌てて刀を握り直したが、その時には戦いは    
始まっていた。豪快に足元の建物などを壊しながら、玲が正面    
から突撃してきたからである。何とか受け止めることには成功    
したものの、すかさず繰り出された足払いはまったく予想でき    
なかった。
「あっ……!」
 短い悲鳴が口をついたものの、バランスは保てなかった。三    
十倍サイズにまで巨大化した薫は壊したばかりのビルの上に座    
り込むかのようにしりもちをついてしまった。気を失っている    
響を巻き込まなかったのだけが幸いだった。
 それでも玲は無表情のまま西洋剣を振り下ろしてきた。凄ま    
じい剣風に全身が冷たくなりなりながらも、何とか回避する。    
 ここから離れないと……。響を巻き込んでしまう……。
 何とか立ち上がったものの、正直自分のことよりも主人の黒    
羽や妹の響のことが心配でならなかった。玲の次の攻撃も受け    
止めたものの、力は入りきらず大きく後退してしまう。
「そんなことだと本当に死ぬよ。何度も言ったじゃないか」
 間合いを取り直し、商店街を無造作に踏み潰しながら玲が警    
告する。
「薫は優しすぎる。そもそもハンターになんかなるべきじゃな    
 かったんだ」
「無理よ。藤間の家に生まれて特別な力を持ってたんだから」    
「日陰者扱いだったのによく言うね。本当は離れたくて仕方な    
 かったんだろう?」
「それは……」
 心の奥に押し込めて隠してきた<本音>を見透かされて、薫    
の構えが大きく崩れた。それを見て、玲が疾風のような勢いで    
踏み込んでくる。
 反応が、間に合わない……!
 次の瞬間、腹部が焼けるように熱くなった。玲の剣に斬られ    
たと気づいた時には、痛みが脳を直撃して、その場に膝をつい    
てしまった。
 辛うじて最悪の事態は免れたものの、動きを鈍らせるには十    
分過ぎる程の一撃だった。
「だから言ったじゃないか。油断してたら死ぬって。次は無い    
 と思った方がいい」
 剣を構え直しても、玲は無表情のままだった。
 今まで何度か見せてきた優しい表情も全て偽りだったのだろ    
うか……?
 ぼんやりとする意識にそんな考えが浮かんでくる。傷からは    
血が滲み、奇麗な衣装を少しずつ汚していく。
「……でも、今降伏するならこれ以上は手を出さない」
 突然、玲の口調が変わった。沙耶が息を呑んだのが気配だけ    
で感じられる。主人の少女も予想していなかったのだろうか。    
「降伏して、沙耶様にお仕えすると誓約できるならばこれ以上    
 は手を出したりしない。これ以上傷つけたくない」
「玲! 駄目! 何を考えてるの!? 薫を生かしておくわけに    
 はいかないって何度も言ったじゃない!」
「それでは駄目だと僕も言ったはずです。黒羽は仕方ありませ    
 ん。でも、薫まで殺すのはやり過ぎです」
「七瀬の時は何も言わなかったじゃない」
「……。本当は嫌でした。策として必要だとは分かってました    
 けど、それだけでした」
「まさか、裏切る気?」
 沙耶の声が一段と低くなる。いつものお嬢様然とした雰囲気    
をかなぐり捨てて、欲望に駆られた醜い吸血鬼としての顔にな    
っていた。
「いいえ。ただ現実的になっただけです。薫はまだ使い道があ    
 ります。殺す必要なんかありません」
「ここまできて話を蒸し返すなんて……。それでも私の従者な    
 の?」
「従者だから言うんです。……その話は後でしましょう」
 玲が目線を向けてきた。先程のまでの剣呑な雰囲気は消えて    
いて、いつもの人懐っこい表情に戻っていた。
「薫。最後のチャンスだと思って。今降伏したら僕が何とかし    
 てみせる。沙耶様はああ言ってるけど、大丈夫。沙耶様が僕    
 のことを切れるはずがないからね」
 沙耶が何かをつぶやいたようだったが、薫には聞こえなかっ    
た。それよりも、玲の変わり身が信じられなかった。
「策略だと疑ってると思うけど、悪い話じゃないはずだ。降伏    
 しなかったら殺されるだけだからね。悪い賭けではないと思    
 うけど?」
 薫は何も言わずに少年従者を見返した。腹部の傷が焼けるよ    
うに痛み、立っているのも難しい。致命傷ではなかったが、戦    
い続けるのは限界だった。
「……。確かめたいことが、あるけどいい?」
 途切れがちに薫が口を開いたのは、しばらく沈黙が続いた後    
のことだった。
「もしわたしが降伏したら黒羽様は……助けてくれる?」
「さっきも言ったけどそれは駄目だ。僕たちの目的は黒羽の排    
 除なんだから。あの世間知らずのお嬢様吸血鬼が一番邪魔な    
 んだ。その点は分かってほしい」
「そう……。でもわたしは助けてくれるのね」
「もちろん。薫は巻き込まれただけだからね。七瀬の分も助け    
 てあげるよ」
 薫がわずかに目を伏せた。
 躊躇っていると思ったのか、玲はなおも必死になって言葉を    
続ける。
「どうしても見捨てることはできないんだ。大丈夫。沙耶様は    
 きっと分かってくれる。僕が説得するから」
「……どうして、そこまでするの?」
「薫のことが好きだからに決まってるじゃないか。僕と一緒に    
 暮らそう。そうすれば……」
 心の奥を全てさらけ出すかのように、一段と身を乗り出した    
……その瞬間だった。
 空気を切り裂く音と同時に、少年従者の胸に深々とナイフが    
突き立った。

 その時、何が起きたのか正確に理解していたのはたった一人    
だけだった。
「いい加減にしなさい、玲。それ以上言ったら命を落とすと前    
 にも警告したじゃない」
 ナイフを投げた後の構えを崩さないままで、沙耶が言葉を投    
げかける。その瞳にはまったく感情が浮かんでおらず、ただ冷    
ややかだった。
「さ、沙耶……様?」
「黒羽の従者だった薫もいらない。私の意志は変わるわけない    
 じゃない。貴方はもう用無し。解雇するわ」
「そ、そんな……沙耶様!」
 玲の胸に紅い染みが広がっていく。口からも血を流しながら    
崩れ落ちるかのように膝をつく。何も考えずに駆け寄ろうとし    
た薫だったが、沙耶に視線を向けられると固まったように動か    
なくなる。
「貴方は私にとって自分が唯一の存在だと思ってようだけどそ    
 んなことは無かったのよ。貴方の代わりなんて幾らでもいる    
 わ」
「沙耶……様……」
 車などが密集する大通りに玲の巨体が物のように倒れる。鮮    
血が周囲に溢れ出し、薫は息が止まる。それでも、少女は何も    
できない。
「最後の最後まで忠義な自分に酔ってるわね。まったく、そん    
 なところが好きじゃなかったのに。勘違いも大概にしてほし    
 いわ」
 玲が言葉を発することはなかった。何が起きたのか理解して    
いない表情のまま目が閉じていく。
 人懐っこい子犬のような優しい光が失われるにつれて、薫の    
心の中でも何かが崩れていく。
 それが心を交わした少年との今生の別れだった。
「玲! 玲!」
「無駄よ。吸血鬼の眷属に銀のナイフは最悪の凶器だから。そ    
 れより、自分のことは考えなくてもいいの? 吸血鬼の眷属    
 である薫さん」
 ゆっくりと、沙耶が歩き始めた。巨大化していることもあっ    
て足元の建物を容赦なく壊しながら歩いてくる。
 それでも、薫の足はまったく動かない。
「見て見て。ナイフはまだあるのよ〜。こんな事もあろうかと    
 用意しておいた特製品なんだから。玲みたいにすぐに死ねる    
 わよ〜」
 突然、沙耶の口調が元に戻った。何も知らない者が聞くと無    
邪気なお嬢様の声にしか聞こえない、本物の悪魔の声。
「黒羽は死んだも同然だし、貴方を始末すれば全て終わり。長    
 かったわね〜」
 手には吸血鬼を狩る刀が握られたままだったが、身体は動か    
なかった。目の前に最高の機会と死が同時に迫まりつつあった    
が何もできない。
「大変だったのよ。七瀬を始末するところから始まって、異世    
 界の実力者やセブンシスターズとも交渉して……。何度も危    
 ない橋を渡ったけど、やっと全て手に入れられるわ〜」
 あと三歩、というところで沙耶が足を止めた。右手に持った    
銀のナイフを悠然と構えてみせる。
「せめてもの情けで、苦しまずに死なせてあげる。大丈夫。す    
 ぐに黒羽も後を追うわよ〜。玲だって先に逝ってるんだから    
 寂しくないわ」
 薫の心は乱れきっていた。今までの出来事が出鱈目に浮かん    
できては消えていく。吸血鬼ハンターながらもその眷属となり    
やっと生きる道を見つけたというのにここで……。
「貴方を殺せばチェックメイト。時間ね〜」
 沙耶がナイフを振りかぶった。
 一切の自由を奪われた薫は、目を見開いたままま<処刑>の    
瞬間を待つしか無かった。
 黒羽様……!
 最後とばかりに主人の名前を心の中だけで叫んだ瞬間。
 銀のナイフが薫の胸目掛けて放たれた。