第9話−(1)呪いは解かれた

 一週間ぶりに黒羽の屋敷に戻った時、薫は足がすくんだ。
 主人の少女吸血鬼を抱きかかえて<箱庭>から出てみると、    
居間には見慣れた顔が全て揃っていたからである。
「薫さん、黒羽様は大丈夫ですか?」
 目を合わせるなり、執事の寺尾が問いかけてくる。
「大丈夫……だと思います。気を失ってるだけです」
「大丈夫じゃないわ。今すぐベッドまで運んで。呪いを解く準    
 備はしてあるから」
 すかさず、スノウがたしなめる。
「本当なら即死してもおかしくないレベルなのよ。耐えている    
 のが奇跡的なんだから。急いで」
「……分かりました」
 <万能の魔女>の言葉に、薫は素直に従った。そのまま、寺    
尾にも助けてもらいながら黒羽の身体をベッドまで運んだから    
である。
「吸血鬼が自分の名前に懸けて誓うというのは……思ったより    
 重い意味を持つのですね」
 主人をベッドに横たえて、薫は大きく肩を落とした。
「私や黒羽のレベルなら猶更よ。誓約みたいなものだから反す    
 れば罰せられる。それを跳ね返す術なんてどんな世界にも存    
 在しないわ」
 隣に立つロッテが腕組みして解説する。
「それなのにわたしは……」
「都合のいい真実だから信じてしまったのね。本当に愚かなん    
 だから。どれだけ黒羽が苦しんだと思ってるの?」
「……」
「ま、戻ってきたんだったらいいわ。もし戻らなかったら……    
 貴方に本当の地獄を味あわせていたから」
 一瞬だけ、ロッテの背後にどす黒いオーラが浮かんだ。しか    
しすぐに笑顔に戻ると薫の手を取る。
「黒羽のこと、これからも頼むわよ。吸血鬼のくせに脆くてど    
 うしようもないところもあるけど、根は悪くないから」
「褒めてるようには聞こえないわね」
「スノウは黙ってて。とにかく、後は任せたわよ」
 言うだけ言って、ロッテは寝室から出て行った。後を任され    
たスノウは何も言わずに呪文の詠唱を始める。呪いを解くらし    
いことに気づいて、薫も部屋から出て行こうとしたが……。
 意識が無いはずの黒羽に腕を掴まれて、足が止まった。
「黒羽様……」
「薫さんはここにいてあげてください。従者というのはそうい    
 うものです」
 すかさず寺尾がアドバイスする。
「でも、わたしは……」
「黒羽様も含めて誰も気にしていません。薫さんは黒羽様の従    
 者であることに変わりありません」
 薫は何も言わずに頷くと、黒羽の手を握り返した。スノウの    
魔法のお陰なのか、先程よりは顔色が良くなったようだった。    
「ここまでして、わたしが必要だったなんて思ってもいません    
 でした」
「ま、無理もありませんね。当初は敵同士でしたからね」
「その前提も完全に崩れてしまいましたけど……」
 この事に気づくまでにどれだけ回り道したことだろう。
 黒羽は人間には手を出さない無害な吸血鬼。
 本当に討ち取るべきなのは……。
「寺尾さん、わたしは吸血鬼ハンターとして五橋沙耶を討ちま    
 す」
「お気持ちは分かります。ですが、今は早まらない方がいいで    
 しょう。黒羽様が目を覚ましてからでも……」
「私は起きてるわ」
 突然、いつもより弱々しい黒羽の声が耳に届いた。スノウが    
なおも呪文の詠唱を続けているのにも関わらず、少女吸血鬼は    
体を起こしつつあった。
「黒羽様! まだ駄目です!」
「この程度は平気よ。スノウ、もう大丈夫。感謝するわ」
「治療はまだ終わってないわ。病人は寝てなさい」
 親友に対する時とまったく同様に、スノウは冷たく言い切る    
と無理やりベッドに寝かせてしまった。無理をしていたのか、    
黒羽は抵抗一つしなかった。
「黒羽様。もっと体をいたわってください」
「さっき<箱庭>の中であんなに派手にぶつかってきてよく言    
 うわね」
「それとこれは話が別です。そもそも黒羽様が無茶をするから    
 です」
「貴方が信じようとしないからよ。私はそもそも人間を殺める    
 趣味なんか持ってないわ」
 負け惜しみ気味の言葉に、薫は笑って頷いた。
 今ならば、黒羽の言うことは素直に信じることができた。
「もし沙耶を討つならば私も協力するわ。七瀬の仇だって取ら    
 ないといけないし」
「七瀬さんの……」
「そんな顔しなくてもいいじゃない。七瀬は七瀬、貴方は貴方    
 なんだから。今の従者は貴方よ」
「……わかりました」
 自分がどんな顔をしていたのか想像つかないまま、薫は頷い    
た。かつての従者に対する複雑な思いは簡単には消えそうにな    
かった。
「スノウ、あとどれぐらいかかる?」
「そうね。この世界の時間で言うならば三十分といったところ    
 かしら」
「だったら三十分したら居間に行くから薫と寺尾は休んでて。    
 私も少し休ませてもらうから」
 言うだけ言って、黒羽はそのまま目を閉じてしまった。
 本当は無理をしていたのだろうか。
 そう思ったものの、薫は何も言わず言葉に従ったのだった。    

 それから三十分後。
 予告した時間通りに黒羽は居間に姿を見せた。
「もう大丈夫なんですか?」
 主人が姿を現したので、薫は慌てて立ち上がって迎えた。
「平気よ。人間なんかとは違うんだから」
「とりあえず回復しただけよ。これが終わったら朝まで寝てい    
 ないと駄目なぐらい」
 言うことを聞かない患者を受け持つ医師のような顔でスノウ    
が付け加える。
「無理はしないてぐださい。貴方だけの体ではないんです」
「さっそく従者としての顔に戻ったわね。変わり身が早いんだ    
 から」
「……。別にそういうつもりではありません。一時的に離れて    
 いただです」
「ま、そういうことにしておくわ」
 ロッテが笑いをかみ殺すような顔をしている事に気づいて、    
薫は赤面してソファーに座り直した。いつものように黒羽は上    
座につき、スノウはロッテと並んで座る。
「早速だけど、沙耶の動きはどうなってるの? 薫がこっちに    
 戻ったから少しは慌ててるんじゃないかしら?」
「そうではなさそうです。今のところ動きはないようです」
 黒羽の問いかけに、すかさず同席していた寺尾が答える。
「民間の専門家に監視を依頼していますから何かあればすぐに    
 わかるはずです。……気になりますね」
「でもあの沙耶が慌てる様子は想像つかないわね。いつも何を    
 考えているのか分からなかったし」
「わたしも一週間側にいましたが、よくわかりませんでした。    
 心を開いているのは従者の玲だけだと思います」
「それなのに私を狙うなんて思い上がりもいいところね」
「そんなことを言ってるから逆に狙われたんじゃないの?」
 少し苛立った様子でロッテが口を挟む。
「黒羽は変なところでお嬢様なんだから。そもそも貴方が銀座    
 の事件の時にアリバイが無かったからおかしな事になったん    
 じゃない。あの時どこにいたの?」
「……。言わないと駄目?」
 黒羽はいつになく弱気だった。いたずらが見つかった子供の    
ような表情を浮かべたので、薫は笑いながら二の矢を放つ。
「駄目です。ちゃんと説明してくれなかったから黒羽様のこと    
 が信じられなかったのです」
「……。あの時は七瀬の墓参りをしてたの。それだけ」
 かつての従者の名前が出てきて、薫は笑みを消し去った。ロ    
ッテも意外だったのか、目を丸くしている。
「それで言えなかったのね。特に薫には」
「当り前じゃない。薫にあれ程熱心にアプローチしてたのに前    
 の従者の墓に詣でてたなんて言えるわけないじゃない」
「わたしは気にしていません。七瀬さんは七瀬さんですから」    
 空気が変わりそうな気がして、薫は慌てて口を挟んだ。
「確かに前は意識していました。でも今は平気です。わたしが    
 今の従者なんですから」
「……やっとそこまで言うようになったわね。半年前からずっ    
 とアプローチしてたのに」
「黒羽様の本心は分かりにくいんです。わたしもやっと慣れま    
 した」
 ずはりと言い切られて、黒羽は面白くなさそうな表情でテー    
ブル上のカップを手にした。中身が無いことに気づくと、寺尾    
にお代わりを要求する。
「平常運転ですね」
「それ皮肉? 貴方のせいで私がどれだけ苦しんだと思ってる    
 の? 嘘の誓いまでさせられたんだから」
「半分以上自業自得です。……でも、沙耶の動きに気づかなか    
 ったのは失敗だったと思います。七瀬さんも沙耶に殺された    
 ようなものですし」
「仇は取るわよ。同じ吸血鬼が相手なら絶対に容赦しない。烏    
 丸黒羽としての名に懸けて成敗するわ」
 言い切った瞬間、黒羽の全身から赤黒いオーラが発せられた    
ような気がして、薫は心の底から震えた。
 従者に言いくるめられてしまう一面もあったが、やはり黒羽    
は世界でも有数の実力を誇る少女吸血鬼だった。
「私<たち>も手伝うわ。ね、スノウ」
「貴方<だけ>でやって。私は屋敷に戻って研究の続きがした    
 いわ」
「……。スノウのおたんこなす。いいわ、私一人で手伝うわ。    
 この世界を滅ぼしても文句は言わないでね」
「出来ないとは言わないけど、するわけないじゃない」
 スノウの言葉には相変わらず感情一つこもっていなかったが    
ロッテは笑っていた。
 いつか黒羽とこんな関係になれるのだろうか?
 薫はふと、そのようなことを考えているのだった。

 スノウに言われるままベッドに戻った黒羽が再び起きてきた    
のは、夜中近くになってからのことだった。
 既に自室に戻っていた薫の元に突然現れたからである。
「黒羽様……」
「ちょっと付き合って。二人だけで話がしたいの」
「お身体は……」
「平気よ。それに吸血鬼は夜になると元気になるんだから」
 言い切られては返す言葉が無く、薫は地味な私服に着替えて    
部屋から出た。
「ところで、本当に私の従者になってくれるの?」
 無言のままだった黒羽が口を開いたのは、自分の私室に入っ    
て扉を閉めた時だった。
「嫌なら無理強いはしないわ。ただ、私が血を与えた以上軛か    
 ら逃れることはできないけど」
「なります。もう藤間の家には戻れませんし、黒羽様の本当の    
 姿もわかりました。貴方に一生お仕えします」
「妹の件はどうするの? 私を殺さないと目を覚まさないわ」    
「……。それは……」
「本当に何も考えてないのね。そんなんだから沙耶にも騙され    
 るのよ。少しは反省しなさい」
 自分自身にもかなりの責任があることを棚に上げて、黒羽は    
部屋を横切って庭園に面したテラスに出た。かつてここで月光    
浴をしていた黒羽を襲撃しようとして失敗したことを思い出し    
ながら薫も続く。
「貴方の妹……響にかけた呪いを今から解くわ」
「え?」
「その必要が無くなったからよ。貴方が従者になるんだったら    
 眠らせておく必要はないわ」
「その為に、響を罠にかけたんですね。わたしをここに誘き出    
 す為に」
「だから最初は<鮮血の夜明け>事件に関りがあるふりをして    
 たのよ。悪く思わないで」
 相変わらずの傲慢さに薫は小さく肩を落としたが、すぐに気    
を取り直した。響が復活すれば、藤間の家も安泰だった。
 庭灯の光に浮かび上がる見事な西洋庭園を眺めている内に。    
 隣に立つ黒羽が短い呪文を唱えた。響にかけられた呪いを解    
くものであることは薫にも分かった。
「これで大丈夫。貴方の妹は目を覚ましたはずよ。明日あたり    
 大騒ぎになりそうね」
「ええ。杏梨が血相を変えて連絡してくると思います」
「だったら丁度いいわね。沙耶を倒す時、藤間の家にも少し手    
 伝ってもらうから」
 一瞬、言葉の意味が分からず薫は何度も目を瞬かせた。しか    
し、すぐに飛び上がらんばかりに驚いた。
「い、いいのですか?」
「前にも話したと思うけど、下賤な吸血鬼どもには頭を悩ませ    
 てるの。このままだと吸血鬼全てが人間に狩り尽されてしま    
 うからその前にこっちから協力するわ」
「その手始めに沙耶を討つんですね」
「もちろん。七瀬の為にも、そして貴方の為にもね」
 口調は穏やかだったが、黒羽の瞳は紅く輝いていた。
 しかし、今の薫にはそれが頼もしく思えていたのだった。