第8話−(4)嘘と都合のいい真実
                                
 同じ日の午後。
 久しぶりに休みをもらった薫は私服に身を包んで、五橋家の    
屋敷から出た。
 ようやく生活も落ち着いたので、必要なものを買い揃えたく    
なったからだった。
 急にこっちに来たから何もないのよね。持ってくるわけにも    
いかなかったし。
 身一つで家出した時のことを思い出しながら、薫は地下鉄の    
駅へと向かって歩いていた。
 でも、何とか暮らしていけそう。沙耶様も優しいし、何より    
も玲がいるから……。
 少女の姿がよく似合う少年従者のことを思うと自然と心が熱    
くなる。初めて会った時から感じてはいたが、惚れていた。
 玲と一緒なら大丈夫。黒羽だって倒せるかもしれない……。    
 交差点の信号が赤だったので、薫は立ち止まった。横断歩道    
の先にある地下鉄駅への入り口を見つめながら、買う必要があ    
るものを考えていた時だった。
「久しぶりね、薫」
 突然、親しみの中に鋭い棘のある声が耳を貫いて、薫は思わ    
ず肩を震わせた。
「黒羽を見捨てて新しい主人のもとに行くなんていい趣味をし    
 てるわね。私の忠告を忘れたのかしら? いい度胸ね」
「ロッテ……様……。どうしてここに?」
「黒羽の様子がおかしいという知らせを受けたからよ」
 すぐ隣に自分より少し小柄な少女吸血鬼が並んだ。黒茶色の    
の長い髪に白のワンピース、そして紅い瞳。異郷の吸血鬼・ロ    
ッテその人だった。一見すると外国の令嬢のように見えたが、    
その凄味は肌に直接突き刺さってくる程だった。
「まさかと思ったけど、沙耶の所にいるなんて思わなかった。    
 何かあったの?」
「……。ロッテ様、聞いてください。黒羽はずっとわたしを騙    
 してきました。鮮血の夜明け事件、そして銀座の事件、いず    
 れも自分は犯人ではないと言いながら実際は手を汚していま    
 した。藤間の家からの情報なので間違いありません」
 ロッテは無言のままだった。ただ、最初に感じた威圧感は弱    
まっていて、薫は期待を抱く。
「証拠はそれだけではありません。黒羽はわたしに嘘をついて    
 たんです。自分の名前に賭けて嘘をつくことが出来るなんて    
 想像できませんでした。まさか、それを防ぐアイテムが存在    
 するなんて……」
「その話、本当だと思ってる?」
 いつもと変わらない口調でロッテが口を開いた。
「え? どういう意味、ですか……?」
「言葉通りの意味よ。私が知ってる限りでは黒羽は自分の名前    
 に賭けたら嘘をつくことなんか出来ないはずよ。そんな事を    
 したら最悪死にかねないからよ」
「まさか……。でもそれを防ぐ方法があって……」
「そんな都合のいいアイテムはこの世どころか、どんな世界に    
 ないわ。ね、スノウ」
「私が知ってる限りでは存在しないわね。もし持っている者が    
 いれば私たちも無事では済まないからよ」
 突然、ロッテとは反対側に<万能の魔女>と呼ばれる少女魔    
法使いが出現した。いつもと違って青と白のワンピース姿だっ    
たが、その瞳と声に感情は込められていなかった。
「全ての誓いを罰を受けずに反故にする。それが可能なのは神    
 以上の存在ぐらいね。少なくとも黒羽は神以上の存在ではな    
 いわ」
「……まさか……でも……」
 突然足元が崩れ去ったような気がして、薫はわずかによろめ    
いた。もしロッテとスノウの言葉が正しければ……。
「はっきり言うわ。貴方は沙耶の仕掛けた罠にかかったのよ。    
 かつての七瀬と同じ。あの子も罠にかけられて自殺するよう    
 に仕向けられたのよ」
「そんな……」
「詳しい話は黒羽から直接聞いて。特別な舞台を用意してあげ    
 たから。……スノウ、そろそろいいわよ」
「人使いが荒いんだから」
 わずかに感情の混じったスノウの言葉と同時に。
 薫の姿はその場から消え去り、後には異世界の二人の少女だ    
けが残された。
「これでいいの?」
「さすがはスノウね。完璧よ。恩に着るわ」
「別に着なくてもいいわ。それより、屋敷に戻るわよ。薫と黒    
 羽の戦いを見たいのでしょう?」
「もちろん。特等席でゆっくりと鑑賞させてもらうから♪」
 さっきまでとは違って、ロッテは上機嫌だった。
 その紅い瞳は結末を見通しているかのように輝いているのだ    
った。

 何が起きたのか、最初は分からなかった。
 気がつくと薫は、身長五十メートル近くまで巨大化して、見    
覚えのある街並みを見下ろしていた。足元の車は何台か潰れて    
おり、アスファルトにも大きな穴が開いていた。
 ここは……鶴野の街? どうしてここに……って、この服装    
は……。
 すぐに自分が生まれ故郷の街の中心付近に立っている事を悟    
った、服装まで変わっていることに気づいてびっくりした。武    
器の刀こそ無かったが、吸血鬼ハンターとしての衣装に身を包    
んでいたからである。
 初めて黒羽に挑んだ時と同じじゃない。でもあの時は黒羽の    
箱庭の術で引き込まれたんだけど、今回は……。
「薫、久しぶりね」
 突然、背後からかつての主人の声が飛んできて、元従者の少    
女は飛び上がらんばかりに驚いた。束ねた髪を大きく揺らしな    
がら振り向くと、巨大化した黒羽が少し離れた通りに悠然と立    
っていた。
「黒羽……」
「<様>はつけないのね。ほんの一週間前までは従者だったの    
 に勝手なものね」
「貴方が嘘をついていると知ったからです。二つの虐殺事件の    
 犯人ではないというのも嘘、藤間の家と手を結びたいという    
 のも嘘、わたしを従者にしたいというのも……」
「黙りなさいっ!」
 右手を大きく振って、黒羽が言葉を遮った。紅い瞳にはかつ    
て見せたような底知れぬ敵意が宿り、背後からは強大な魔力が    
半ば実体化して噴き出しつつあった。
「この私がいつ嘘をついたというの? 何度も名前に賭けて誓    
 ったじゃない。あれも嘘だと言うの?」
「それは……」
「貴方は沙耶に騙されたのよ。自分に都合のいい真実を見せら    
 れたから信じてしまった。それだけの話よ」
「都合のいい真実……」
 確かにその通りだったので、薫は言葉に詰まった。
 もし黒羽が犯人ならば、薫は従者である必要が無くなり、敵    
として戦うことができるようになる。それを沙耶に援護しても    
らえれば……。
「でも証拠はあります! 銀座の事件の時、貴方の犯行が防犯    
 カメラに映ってたと……。杏梨からの情報に間違いがあるっ    
 ていうのですか!?
「あるわ。貴方のいとこも間違った情報を掴まされた。それだ    
 けの話よ」
「なっ……。どうやって!」
「簡単よ。沙耶が魔眼の力を使って警察の上層部に嘘情報を流    
 しただけ。一回しか使えない手だけど、効果は最大だったみ    
 たいね。みんな騙されるんだから」
「そんな……」
 今まで信じてきた前提が全て崩されたような気がして、薫は    
その場に座り込んでしまった。巨大化している為、車が複数巻    
き込まれてスクラップになったが気にならなかった。
「これで分かったかしら? まったく、いい加減なものね。こ    
 の程度のトリックも見抜けないなんて。そもそも私が嘘をつ    
 くわけないじゃない。つけるわけもないし」
「……。証拠が、ありません」
「え?」
「証拠が無いと言ったの! 嘘つき吸血鬼!」
 一瞬の出来事だった。
 心に火が点くのと同時に、吸血鬼ハンターとしての自分を思    
い出して目の前の黒羽に飛びかかっていったからだった。
 芸のない正面からの攻撃だったが、完全に油断していた黒羽    
はそのまま受け止めてしまい、大通りに背中から叩きつけられ    
る。巻き込まれた周囲の建物が破壊され、ガラスの破片がふた    
りの巨体に降り注ぐ。
 それでも薫は黒羽の身体に両手を回すとそのまま転がった。    
一部が破壊された大型ビルなどがまとめて薙ぎ倒され、瓦礫が    
容赦なく叩きつけてきたが、<箱庭>内での戦いに慣れている    
薫はそのまま一回転して黒羽の上に馬乗りになる。
「この嘘つき! 絶対に許さないんだから!」
 黒羽の顔に驚きしか浮かんでいないことに気づいて、薫はか    
つての主人を一段と痛めつけたくなった。手近なビルの屋上か    
ら看板を引き抜くと、それを叩きつけたからだった。黒羽は両    
手を前にしてかばったが、壊された看板の破片が降り注いで顔    
をしかめる。
「そんな顔もするのね。眉一つ動かさずに人間を虐殺する極悪    
 吸血鬼のくせに……」
「私は……」
「文句あるの? 烏丸黒羽」
「私がそんなことするわけないじゃない!」
 何が起こったのか、一瞬分からなかった。身体が宙に浮いた    
かと思うと、次の瞬間にはアーケードに覆われた商店街の真上    
に落下していたからだった。轟音と共に多くの店が破壊され、    
鉄骨製の瀟洒なアーケードがねじ曲がって地面に叩きつけられ    
る。伸ばした手足は周囲の住宅やビルを巻き込み、一部を爆発    
炎上させる。
「何度でも言うわ。私は<鮮血の夜明け>事件も銀座の事件も    
 起こしていない。烏丸黒羽の名に懸けて誓うわ」
「そんな嘘、誰も信じたりしない! 幾ら嘘をついたとしても    
 無効にできるならば……」
「ところで私のルビーのブローチはどこ? 泥棒猫さん」
 薫の言葉による攻撃は、黒羽の溜息交じりの発言によって勢    
いを失った。
「あれ高かったのよ。まさか偽物になっているなんてスノウに    
 言われるまで気づかなかったわ。ロッテには散々呆れられた    
 けど」
「え……」
 <呪いを全て無効にする>ブローチを持っていないのにも関    
わらず、黒羽が自分の名前に懸けて二つの事件の犯人ではない    
と宣言したことに、薫の頭は混乱していた。
 え? 待って……。黒羽は今呪いに対して無防備のはず。そ    
れなのに平然と嘘をついて何も起こらないってことは……。黒    
羽は嘘をついてない……?
「やっと意味が分かったかしら? 吸血鬼ハンターの藤間薫さ    
 ん。初めて会った時から変わってないわね」
 気がついた時には、黒羽は目の前まで来ていた。薫が破壊し    
た商店街を踏み潰しながら平然と腕を組んでいる。
「とっても愚かで、しかも私を裏切った貴方にはちょっとした    
 罰が必要ね。受けてもらうわよ!」
 薫が反論するよりも早く、黒羽の強烈な蹴りが薫の腹部を直    
撃した。痛みに意識が一瞬遠くなり、巨大化した少女はなすす    
べなく住宅などを破壊しながら転がる。
「この程度では許さない。裏切ったことを後悔させてあげるん    
 だから!」
 いつになく感情的な黒羽の声が遠くなった意識の内部に響き    
渡る。何が正しくて、間違っているのか分からなかった。