第8話−(1) 沙耶の屋敷にて

 地下鉄を乗り継いで、薫が沙耶の屋敷の前まで来たのは夜中    
近くになってからのことだった。予め指示されていた通りに裏    
側に回り、通用口のインターホンのボタンを押すと、すぐにメ    
イド服姿の少年従者……玲が出てきた。
「よく来てくれたね。その様子だとすり替えは上手くいったみ    
 たいだね」
「簡単だったわ。黒羽……はわたしのことを信じてるから」
 一瞬<様>付けで呼びそうになって、薫は慌てて訂正した。    
 もはや黒羽は主人ではなく、敵そのものだった。
「だったね。さ、入って入って。尾行はないと思うけどあまり    
 見られたくないからね」
「うん……」
 曖昧に頷いて、少女は沙耶の屋敷に足を踏み入れた。
 広さは黒羽の屋敷の半分以下といったところだろうか。洋風    
でまとめられているのは同じだったが、全体的に地味な印象は    
拭えなかった。
「部屋はもう用意してあるからそこを使って。明日からは僕と    
 同じようにメイドとして働いてもらうからね」
「こっちに来てもメイドなのね」
「不満? 似合うと思うけど」
「そういう意味じゃないんだけど……」
 話をそらされたような気がして、薫は言葉を濁した。
 どうも自分は他人に従うしかない立場に立たされてしまうよ    
うだった。
「でもその前に沙耶様には挨拶しないとね。新しいご主人様だ    
 からわね」
「本当にわたしなんか加えても大丈夫なの?」
「平気平気。すぐに慣れるよ。今までだってちゃんと務めてき    
 たんだから。それに僕もいるからね」
 そう言って、玲は片目を閉じてみせた。いつもの無邪気な笑    
顔に、薫は少しばかり緊張が緩む。
 何とかなりそうね。玲さえいてくれれば……。
「沙耶様のところに案内するよ。ついて来て」
「うん……。広くて迷いそうね」
「黒羽の屋敷程じゃないと思うけどね。沙耶様はあまり見栄を    
 張らない方だから」
「そう言えば、普段沙耶様は何をされてるの?」
「仕事のこと? 特に仕事はしてないよ。代々受け継いだ資産    
 をプライベートバンクで運用するだけで暮らしていけるから    
 ね。そこは黒羽と違うかな」
「黒羽は結構仕事熱心だったわね。執事もいたし」
「今思うとそれも隠れ蓑だったのかもしれない。表向きは令嬢    
 だったけど、実際は無差別に人間を虐殺する怪物だったから    
 ね」
 玲の言葉に、薫は思わず右手を強く握りしめた。
 最初から黒羽を疑っていれば、銀座の事件は防げたかもしれ    
ない……。
「でも、誰も見抜けなかったからね。同盟を結んでいる異郷の    
 吸血鬼ですら気づいていないぐらいだからね」
「……そうだったわね」
 今更のように薫は頷いた。同時に、少しだけ気持ちが楽にな    
るのを感じる。
 黒羽の<正体>を黒羽自身しか知らなかったのならば、防げ    
ないのも無理なかった。
 玲が立ち止まったのは、しばらく廊下を歩き続けた後のこと    
だった。「ここが沙耶様の私室なんだ」と説明してから、少年    
従者は「沙耶様、薫が来ました」と言いながら扉を開ける。
 新たに主人となった少女吸血鬼はソファーに悠然と腰かけて    
いた。薫の姿を見ると、ゆっくりとした動作で立ち上がる。
「よく来てくれたわね〜。歓迎するわ。これからは私の為に働    
 いてくれるわね?」
「はい。沙耶様の為に力を尽くします」
「ありがたいわね。これで黒羽を倒すための駒が揃ったわね」    
 黒羽を倒す、という言葉に薫は胸の奥がわずかに疼くのを感    
じた。裏切ったことに対する後ろめたさは、簡単に消えるもの    
ではなかった。
「本当にわたしなんかでいいのですか? わたしの実力は沙耶    
 様もご存じのはずです」
「貴方だからいいのよ。元とはいえ吸血鬼ハンターなんだし、    
 黒羽の近くにいたんだから。きっと役に立つわ」
「ありがとうございます……」
 薫は素直に礼を述べた。というより、それしか言葉が浮かば    
なかった。新しく主人となった吸血鬼との距離感は掴めそうに    
なかった。
「しばらくは玲が色々教えるから安心して。少しずつ慣れてい    
 けばいいわ」
「黒羽打倒は……いつなんですか?」
 深い眠りについたまま目を覚まさない妹のことを思い浮かべ    
ながら、薫は質問した。
「そう焦らなくてもいいわよ。駒は揃ったけど、まだ厄介な問    
 題が残ってるじゃない。他のセブンシスターズとか、同盟相    
 手のこととか。彼らに対する対策が終わらないと行動には移    
 せないわ」
「というわけで、慌てなくてもいい。しばらくは慣れることに    
 専念すればいい」
 玲の言葉に薫は小さく頷いたが、かすかな疑念も残った。
 てっきり、対策は済んでいると思っていたからである。
 もしわたしが裏切ったと知ったらロッテ様がどう動くか分か    
らないわね。黒羽のことを頼まれていたのに。
「ところで、魔よけのブローチは手に入れたんでしょう? 渡    
 してもらえる?」
「あ、いえ……。今手元にはありません。作戦が始まるときに    
 お渡しします」
 とっさだったが、薫の唇から嘘が紡がれた。本当はポケット    
に入れていたのだが、今渡すのは得策ではないような気がした    
からだった。
「作戦が始まる時、ね……。まだ私のことが信頼できないのか    
 しら?」
「そういうわけではありません!」
「ま、いいわ。裏切られせておいて切り札まで奪おうなんて虫    
 が良すぎるわね。しばらく持ってるといいわ」
「済みません……」
 沙耶は薫の嘘に気づいているようだった。しかし、それ以上    
は追及せずに話を変える。
「今日は遅いから詳しいことは明日話すわ。あと、黒羽が同盟    
 している異世界の吸血鬼について詳しく教えてくれない?     
 どうにも情報が足りなくて困っていたのよ〜」
「承知しました」
 胸に手を当てて、薫は小さく頷いた。もしかすると、ロッテ    
のことは薫を仲間に引き入れてから考えるつもりだったのかも    
しれない。
 勝手に納得してるのだった。

 薫が屋敷の一角にある部屋に案内されたのは、それからしば    
らくしてからのことだった。
「あまり大きな部屋じゃないけどここを使って。僕の部屋のす    
 ぐ隣だからね」
 扉を開けながら、案内役の玲がいたずらっぽく言った。
「何かあったら気軽に呼んでほしいな。何度も言うけど、僕た    
 ちはもう仲間だからね」
「吸血鬼の従者という仲間ね」
「そういう言い方はしないで欲しいな。気持ちは分かるけど」    
「……ごめん」
「平気平気。気にしなくてもいいからさ」
 玲に慰められながら、薫は自分の為に用意された部屋へと入    
った。黒羽に仕えていた時と同じようにこぎれいにまとまって    
いたが、生活感はまるで無かった。
「もし必要なものがあったら僕に言って。調達してくるから。    
 沙耶様からも最大限便宜を図るように命じられてるからね」    
「随分わたしに気を使ってくれるのね」
「そりゃあね。黒羽の元従者で、色々な情報を知ってるんだか    
 ら。それだけでも大変な価値がある」
「でも、本当に倒せるの? 黒羽の同盟相手はとても強いんだ    
 から。あの黒羽が負けたぐらいだから」
 玲の顔から笑みが消えた。椅子に腰かけた薫と向かい合うよ    
うにベッドに腰掛けると、少し低い声で問いかける。
「その話本当? 噂だけしか聞いてないからさ」
「間違いないわ。黒羽もロッテ様も同じことを言ってたから。    
 負けたから同盟を結ぶことができたのよ」
「黒羽を負かした異世界の吸血鬼か……。相手に回したくない    
 な。その吸血鬼、他にも仲間がいる?」
「まずはロッテ様の妹、リオン様ね。幼いけどその潜在能力は    
 姉以上。ただまだ制御できてないから余計危険ね。後、ロッ    
 テ様の親友で魔法使いのスノウ様、そして魔法剣士のユラ。    
 危険なのはこのあたりね」
 玲の返事が無かった。不思議に思った薫がそっと横顔を覗き    
込むと、少女の姿をした少年従者は微かに唇を震わせていた。    
「玲?」
「計算違いをしていたかもしれない。そんなに手強い相手と同    
 盟してたなんて。道理でセブンシスターズが手を出さないは    
 ずだ」
「黒羽はよく言ってたわ。この同盟は最高の抑止力になると。    
 ロッテ様の方も同じメリットがあるから崩すのは非常に難し    
 いわね」
「だったどうすればいい? どうやったら黒羽を倒せる?」
 玲の言葉は薫に向けたものではなかった。その場にいない主    
人に対して問いかけているのだろう。薫は何も言わずにただ耳    
を傾ける。
「このままだと黒羽を倒してもこっちが消されてしまう。それ    
 じゃ意味がない。何か策があれば……」
「出来るかわからないけど、何とか引き離すしかないわね。ロ    
 ッテ様にも真実を知ってもらうとか」
 思わず、薫は口を挟んでいた。ここで沙耶や玲に弱気になら    
れは何のために裏切ったのか分からなかった。
「鮮血の夜明け事件も、銀座の事件も犯人は黒羽で間違いない    
 んだから説得できるかもしれない。敵に回すと最悪だけど、    
 味方に引き入れれば……」
「その作戦、さっそく沙耶様にも話してみるよ。ま、後でちゃ    
 んと打ち合わせはするけどね」
「何とかなりそうね」
 薫の言葉に、玲はいつものように無邪気に笑った。ぽんと肩    
に手をかけ、親しみを込めて言い切る。
「頼りにしてるよ。薫が鍵を握ってるんだから」
「うん。何とか……やってみるから」
 心の中には依然として不安は残っていた。しかし、もう前に    
進むしかないと半ば開き直っているのだった。