第7話―(5)反逆の始まり
                                
 屋敷に戻ってみると、主人の黒羽は仕事を終えて自室で読書    
していた。メイド服に着替えた薫がそっと部屋に入ると、わず    
かに顔を上げる。
「出かけてたみたいね」
「はい。少しだけ……」
「昨日会った情報担当の従姉妹?」
「……会って欲しいと言うので会ってきました」
「だと思ったわ」
 短い返事だけで、黒羽は興味を失ったかのように目線を文庫    
本に戻してしまった。一瞬、全てを見抜かれたのではないかと    
身構えた薫だったが、内心拍子抜けする。
「話の内容に興味は無いんですか?」
「幾ら私でも密室の中のやりとりまで分からないわ。それに悪    
 い話ではないんでしょう?」
「ええまあ……」
「あの子は面白そうね。昨日も言ったけど、藤間家と連携する    
 時に連絡役になってほしいぐらい。政府上層部とも繋がって    
 るから重宝しそうだし」
 あのような事件を起こしておいて、この少女吸血鬼は何を言    
っているのだろうか。
 激しい怒りが薫の胸の内で燃え上がったが、すぐに疑問に変    
わった。どう見ても、黒羽が嘘をついているとは思えなかった    
からだった。
 誤魔化してるだけ? でもいつもと変わらないし……。
「とりあえずゆっくりしてていいわ。何かあったら呼ぶから」    
「はい。では失礼します」
 黒羽の言葉に薫は素直に従った。一礼して部屋から出る。
 わからないね。黒羽様が。あんな事件を起こした後になのに    
平然としてるなんて。確かに演技力はある方だと思うけど。
 正直なところ、まだ心の隅では黒羽を信じたいという気持ち    
が残っていた。数ヶ月の間側に仕えていたが、決して悪い主人    
ではなかった。
 でも杏梨が間違えるはずもないし、玲だって知ってたんだか    
ら……。少なくとも銀座の事件の犯人は黒羽様。だったらわた    
しは討たなくてはならない……。
「薫さん、戻ってたんですね」
 扉の前で考え事をしていた薫だったが、寺尾から声をかけら    
れて少しびっくりした。
「はい……。済みません、急に出かけたりして」
「別に構いません。ただ黒羽様の場合は困るんですけどね。急    
 遽スノウ様たちに来てもらって助かりました」
「どこに行ったか聞いてないんですよね?」
「何度も質問したのですが、答えてくれませんでした。このよ    
 うな事は今まで無かったのですが」
 そう言いながら、寺尾は軽く眼鏡を上げた。扉の向こうで主    
人が聞いていることを確信した上での発言だった。
「黒羽様には立場というものがありますからもう少しちゃんと    
 してもらわらないと困ります。不用意な行動は誤解を生むこ    
 ともありますからね」
「そう……ですね」
「薫さんが気にすることではありません。何も言わない黒羽様    
 が悪いだけです」
「はっきり言うんですね」
「主人に何でも言えるのが本当の部下ですからね。では失礼し    
 ます」
 言いたいことは言ったと判断したのか、寺尾は悠然と立ち去    
った。その背中を見送って、薫は内心溜息を漏らす。
 何でも言えれば苦労しないのに……。でも黒羽様が答えるわ    
けないわね。銀座の事件の真犯人なんだから。きっと討ち取っ    
てみせる。
 改めて決意を固めて歩き始める。扉の向こう側にいる吸血鬼    
の少女が何を思っているのか、知りたいとは思わなかった。

 スマホの通話アプリ経由で玲から連絡があったのは、降り続    
いた雨が上がった翌日の朝の事だった。
<ブローチの件だけど、作戦が決まったから渡したいものがあ    
 る。今から少しだけ出られる?>
<少しなら平気だけど、何を渡すの?>
<本物そっくりの偽物。これをすり替えればいい。薫にしかで    
 きない事だけどね>
<隙が無いんだけど……。着替えの時? 邪魔になるからわず    
 かの間わたしに渡す時があるのよ>
<それで十分。黒羽様だって薫がまさかそんな事をするなんて    
 思っていないはずだからね>
<了解。だったら今から出るけど、どこで会う?>
<外に出ればいい。どうせ筒抜けだからプレゼントを渡すこと    
 にして誤魔化すよ。で、すり替えが終わったらすぐに連絡し    
 て。迎えに行くから。沙耶様も歓迎してくれるよ>
<了解>
 短く返事して、アプリ経由の会話を終えると、薫はすぐにメ    
イド服から私服に着替えた。
 今の時間なら呼び出される心配はないわね。オンラインゲー    
ムに夢中のはずだから。
 一度ログインすると仕事の予定すら忘れて熱中する性格であ    
ることを思い出しながら、通用口から外に出る。
 雨上がりということもあり空気は湿っていたが、残暑の陽光    
は意外に厳しく、今日も暑くなりそうだった。
 春ここに来たのに夏も終わりそうね。色々あったけど、ここ    
で過ごすのはもう最後。この後は……。
 大通りに向かって歩き始めて幾らもしない内に、角を曲がっ    
て玲が姿を見せた。お下げにした髪が不自然に思えない中性的    
な雰囲気を漂わせながら軽く手を上げる。
「プレゼント持ってきたよ。毎日大変そうだからね」
 少女のような少年はいつものように無邪気だった。まるで柴    
の仔犬に懐かれているような気分になりながら薫も答える。
「まさか玲がプレゼントを持ってくるなんて思わなかった」
「僕たちは吸血鬼の従者という同志だからね」
「まさかこうなるなんて思わなかったけど……」
 思わず本音を漏らしている間に、玲は目の前まで来るとポケ    
ットからリボンで装飾された小箱を取り出した。そっと薫に差    
し出す。
「受け取って欲しいな。もっと仲良くなりたいからね」
「うん……。ありがとう。大事にするから」
 決意を込めて答えると、両手で小箱を受け取る。これで黒羽    
を裏切る準備は整った。
「わざわざ済まないね。外に出てきてもらって」
「これぐらい平気よ。黒羽様はゲームに夢中だし」
「年がら年中側にいるわけじゃないんだ」
「結構自由なのよ、こう見えても」
「僕はずっと沙耶様の側にいたいけどね。……じゃ、また連絡    
 するから」
 言外に作戦完了時の連絡を促しながら、玲は来た時と同様に    
ゆっくりと歩き去っていった。受け取った小箱を握りしめなが    
ら、薫はその後ろ姿を見送ったのだった。

 その日は何もないまま夜になった。
 正直なところ、黒羽は全てを見通しているのではないかと気    
が気でなかった薫だったが、夜の帳が屋敷を包み込む頃には心    
も落ち着いてきた。
 今度の着替えの時にすり替えればいいわね。夜になると一度    
は着替えるからその時……。
 私室を出て、居間へと通じる長い廊下を歩きながら薫は決意    
を固めた。メイド服のスカートのポケットには玲から託された    
ルビーのブローチが仕舞ってある。
 でも本当にうまくいくの? 殺そうとした時だってわざと隙    
を見せて誘ってきたぐらいなんだから。今回だって……。
 その時とは状況が違うような気がした。黒羽が自分に対して    
敵意を抱いていないことが分かっているからだった。
 それどころか従者にしたくして仕方ないみたい。でもわたし    
は吸血鬼ハンター。そんな事は出来ない。眉一つ動かず人間を    
虐殺する吸血鬼の従者になんて……。
 もし黒羽が二つの事件の犯人でなければ、選択は違っただろ    
うが、現実は非情だった。一時は信じた<主人>に裏切られて    
見切る決意を固めたのだった。
 結局、こうなる定めだったのね。黒羽様がどんなに好意的で    
もわたしは裏切る。そしてこの手で討ち取る……。
 そんな事を考える内に居間まで来た。主人の黒羽はソファー    
に腰掛けてテレビのニュース番組を見ていたが、薫の存在に気    
づくと顔を上げる。
「そろそろ着替えるわ。手伝って」
「はい。……黒羽様は着替えが好きですね」
「何度も言ってるじゃない。TPOが大事なのよ。それに着替    
 えれば気分も変わるじゃない」
「仕事も終わったので遊ぶ時間ですね」
「分かってきたわね。今日は朝まで遊ぶわよ」
 どうやらまたオンラインゲームに熱中するつもりらしい。吸    
血鬼であり、令嬢でもある少女らしくないその行動ぶりには未    
だに慣れない。
「でもお嬢様らしい姿は崩さないんですね」
「当然じゃない。私は吸血鬼の名門・烏丸家の生まれ。ふさわ    
 しい服装があるじゃない」
 黒羽はどこか楽しそうだった。従者になったばかりの頃はぶ    
っきらぼうな態度を見せることも多かったのだが、花火大会の    
時の告白以降はふっきれたように明るくなった。
 ……。虐殺事件の犯人でなければよかったのに。そうすれば    
わたしは……。
 居間を出て、黒羽の私室の一つに入る。贅沢を好む令嬢だけ    
に着替えの為の部屋もわざわざ用意していた。
 チャンスね。この部屋に入れるのはわたしと黒羽様だけ。邪    
魔も無いし、黒羽様も油断してるみたい……。
「この服に着替えるわ。……ところで薫」
「はい」
 心の中を見透かされたような気がして、薫は飛び上がりそう    
になった。それでも、何とか表に出さず返事する。
「貴方もゲームに付き合わない? 一から教えてあげるわ」
「わたしは遠慮しておきます。吸血鬼ハンターとして実際に戦    
 ってきましたから」
「でも役立たず扱いだったんでしょう?」
「……そうです」
「まったく、その程度で邪険にするなんて考えられない。薫に    
 は薫の魅力があるのに。気づいたのは貴方の妹と従姉妹ぐら    
 いね。特に従姉妹なんかずいぶん気遣ってたじゃない」
「そういう性格なんです。口は悪いんですけど、面倒見はとっ    
 てもいいんです」
「大事にしないと駄目よ。応援する人がいれば生きていけるん    
 だから」
 服を脱ぎながら、黒羽は声のトーンを上げた。少しずつバラ    
ンスの取れた肢体が現れてきたが、既に見慣れている薫は平然    
と切り返す。
「貴方がそう言うなんて思いませんでした」
「……。七瀬が教えてくれたのよ。あの子は貴方以上に寂しか    
 ったんだから」
 既にこの世にいない前の従者の名前が出てきて、黒羽の服を    
畳んでいた薫は驚きを顔に出してしまった。黒羽がこのような    
形で七瀬の名前を口にしたのは初めてだった。
「そんなにびっくりしないくてもいいじゃない。まさか意識し    
 てる? だったらお門違いね。あの子はあの子、貴方は貴方    
 なんだから」
「そうですけど……」
「ま、いいわ。これ持ってて」
 話を打ち切って、下着姿の黒羽は乱暴な手つきでルビーのブ    
ローチを薫に押し付けてきた。慌てて受け止めたが、すぐに機    
会が到来したことに気づく。
 黒羽様はこっちを見てないわね。……大丈夫。
 予め、頭の中で想定した通りであることに安堵しながら、一    
瞬の早業でブローチをすり替える。普通の人間には不可能なレ    
ベルの俊敏さだったが、元吸血鬼ハンターである薫にしてみれ    
ば難しいことではなかった。
「で、話は戻るけど、本当にゲームに参加する気はない?」
 肌もあらわな背中を向けたままの黒羽の声はいつもとまった    
く変わらなかった。
「はい。どうしてもその気にはなれません」
「変な所で強情なのね。知らない人間と楽しむのもいいけど、    
 薫とだった楽しみたいの」
「それが本音なんですね」
「主人が従者を誘って何が悪いの? ブローチ返して」
「はい。でもゲームの中でも従者なんですね?」
「別にそうでもないわ。……友達とかでもいいのよ。どうせオ    
 フで会わないと分からないんだから」
「……。だったら考えておきます」
 思わず本音で答えながらも、薫は黒羽の様子を探った。偽物    
のブローチを渡されたのにもかかわらず、気づいていないよう    
だった。
「だったら助かるわね。レクチャーはするけど好きな職業(ク    
ラス)を選んでもいいわよ。ま、貴方のことだから長剣を振    
 り回す職業が似合いそうね」
「……そうでしょうか?」
「ま、その時になったら考えばいいわ。明日特に予定は無いし    
 今日は遊ぶわよ」
「私はお役御免でいいですか?」
「いいわ。……だから誘ってるのに」
「ゲームには興味ないですから仕方ありません。では、失礼し    
 ます」
 黒羽の従者としての自分に別れを告げるように薫は言い切る    
と、何もなかったかのように部屋から出た。
 それから三十分後。
 私服に着替えた薫はすり替えたブローチだけをポケットに仕    
舞って、数ヶ月を過ごした烏丸家の屋敷を後にした。
 未練はなかった。
 ただ、少しは信じた少女吸血鬼に裏切られたという思いだけ    
は消えそうになかった。