第7話―(4)玲との接触、そして……
                                
 どうしても、屋敷に戻る気にはなれなかった。
 <T>の入居している雑居ビルを出た薫は、降りしきる雨の    
中でも傘を差さずに歩き始めた。
 前髪が濡れて水滴を滴らせ、洋服も肌に張り付く。それでも    
まったく気にならなかった。
 黒羽様を討つ……。わたしは元はといえば吸血鬼ハンターだ    
から出来るかもしれないけど、力の差がありすぎるわ。それに    
武器だって取り上げられたままだし……。
 初めて黒羽と箱庭の中で戦った時、隙を突かれて刀を奪われ    
たのが痛かった。無銘ながらも吸血鬼の命を奪う特別な力があ    
る伝来の武器だっただけに、無力感は大きかった。
 どこに隠したのか分からないんじゃどうにもならないじゃな    
い。調べたけどあんなに広いとどうにもならないし。それにあ    
ったとしても力の差があり過ぎるし……。
 問題は山積していた。奪われた刀の行方、黒羽の実力の差、    
そして異世界の吸血鬼・ロッテの存在……。
 どうすればいいのかも分からなかった。
 目の前で歩行者用の信号が赤に変わったので、薫は反射的に    
足を止めた。気が付くと、銀座の近くまで歩いてきていた。今    
更のように傘を差していないことに気づいたが、広げる気には    
なれなかった。
 一段と中途半端になってしまったわね。いっそのこと、完全    
に黒羽様の従者になってしまえばよかったのに。そうすれば敵    
対することなんてなかったのに。
 薄灰色の空を見上げながら、考えていた時だった。
「薫……。どうしたんだ?」
 聞き覚えのある少年の声が耳に入ってきて、薫はびっくりし    
た。慌ててその方向を見ると、洒落た私服に身を包んだ少年従    
者の玲がびっくりしたような顔を浮かべて立っていた。
「玲……」
「この時間にこんな所にいるなんて……。黒羽様と揉めたのか    
 い?」
「……。そんな事じゃないのよ」
「何かあったみたいだね。僕でよければ相談にのるけど?」
「……。大丈夫。大したことじゃないから」
 信号が変わって、歩行者たちが歩き出した。人波の中で、吸    
血鬼の従者である少女と少年は立ち止まったまま見つめ合う。    
「大したことがあるように見えるけどね。こんな事を言ってい    
 いのか分からないけど……。黒羽様が銀座の事件の事件現場    
 にいたことは僕も知ってる」
「え?」
「図星だったみたいだね。やっぱりその件だったんだ」
「なんで……知ってるの? わたしもさっき知ったばかりだっ    
 たのに」
「蛇の道は蛇、としか言えない。でも相談になら乗るよ」
 俯いたまま、薫は小さく頷いた。前髪から水滴が落ちて、涙    
のように顔を流れていく。
「そこの店に入ろう。こんな場所じゃ風邪をひくからね」
「……ごめんなさい」
「謝ることなんかない。僕たちは同じ立場だからね」
 その言葉に複雑な感情を覚えながらも、薫は言われるまま交    
差点に面したファストフードの店に入った。奥まった席に向か    
い合って座る。
「知ってると思うけど、黒羽様は銀座の事件現場にいた。しか    
 も犯行の瞬間を映像を撮られている。そのことで悩んでいた    
 んだよね?」
「……うん」
「信じられないのも無理ないと思うけど、沙耶様が警告してい    
 た通りだったわけだ。信じられないかもしれないけど、これ    
 が現実だったんだ」
「どうして……黒羽様が……」
「僕にも分からないし、沙耶様も何も言わない。ただはっきり    
 してる事は黒羽様が人類の敵だってことだ」
「人類の敵……」
「特に理由もなく無実の人間を多数虐殺してるんだからね。沙    
 耶様は密かにそれを憂いていた。だから薫にも声をかけて警    
 告したんだ」
「そうみたいね。でもわたしは……」
「別に今からでも遅くない。もし黒羽様を討つ覚悟があるなら    
 沙耶様と僕が手を貸す。薫一人では相手にならないからね」    
 玲の言葉に、薫はびっくりして顔を上げた。そこまで考えて    
いるとは思ってもみなかったからだった。
「率直に言って、沙耶様の力だけでは黒羽様には敵わない。薫    
 の力が必要なんだ」
「でもわたしの実力なんて大したことないし……。それに武器    
 も無いんだから」
「吸血鬼を狩る刀だけが武器じゃない。知恵を働かせればどん    
 なものでも武器になる。その点でも薫の力が必要なんだ」
 話の意味がよく分からず、薫は小さく首を振った。それを見    
た少年従者はいつもの人なっこい笑みを浮かべると、少し身を    
乗り出してこう言った。
「薫が黒羽様と戦う意志を固める。これだけでも黒羽様は大変    
 な事になる。信じてきた従者に裏切られるんだからね」
「……本当に?」
「実はそれだけじゃない。従者である薫じゃないと出来ないこ    
 とがある。黒羽様が身につけている全ての呪いを無効化する    
 ルビーのブローチ。あれを奪うという作戦が可能になる」

 一瞬、薫は何を言われたのかよく理解できなかった。しかし    
言葉の意味を全て飲み込むと内心恐ろしくなった。
「無理よ、そんなの……。絶対に離さないんだから」
「離さない? 入浴の時も?」
「当然じゃない。もちろん寝る時よ」
「さすがによく知ってるね」
「当然じゃない。ずっとお世話してる……って、だからわたし    
 じゃないと出来ないってこと?」
「そういうこと。黒羽様の着替えを手伝ったりするのは薫の役    
 目だって聞いてるからね」
 両手をテーブルにおいて、薫は何も言わなかった。確かに玲    
の言うとおりだったが、黒羽の持つブローチを奪う自信はまっ    
たく無かった。
 無理よ、そんなの……。わたしに触らせたりしないぐらいな    
んだから。
「沙耶様の話ではそのブローチを失うと黒羽様はかなり弱体化    
 するらしいんだ。ま、当然だけどね。呪いを撥ね退ける手段    
 が無くなるんだから」
「でもどうやってやるの?」
「実はまだ考えてない。薫の協力が得られることが最低条件だ    
 ったからね」
 捨てられた子犬のような目で言われると、薫も抗議の言葉を    
飲み込むしかなかった。しかし、既にそこまで沙耶は考えてい    
たことに気づく。
 だから何度も接触して警告してきたのね。こうなることを知    
ってたから。でもわたしは……。
「もしかして、協力するのが遅れたことを後悔してる?」
「え? ……どうして分かったの?」
「ただの勘だけどね。でも、薫は悪くない。こっちだってそう    
 簡単に信じてもらえるなんて思わなかったからね」
「そういうものなの……?」
 罪悪感が消えなかった。もし自分がもっと早く吸血鬼ハンタ    
ーとしての自覚を取り戻していれば銀座の事件は防げたかもし    
れない……。
「そういうものだと思うけどね。それに起こってしまった以上    
 はこれ以上の被害を食い止めるしかない」
「うん……」
 心の何処かでは依然として納得出来ない部分があった。色々    
あって黒羽の従者となったものの、その日々は充実していたか    
らである。
 黒羽様だって普段は普通のお嬢様なのに。せめてあんな事件    
さえ起こさなければ……。
「あ、そうだった。もし黒羽様のもとにいられなくなっても沙    
 耶様が世話してくれるから問題ないよ。従者に近い立場でず    
 っと安定した生活できることを約束するよ」
「沙耶様が……?」
「もちろん、藤間家と連絡を取り合ってもいい。黒羽様を討ち    
 取れば向こうだって信頼してくれるはずだし」
「そうだといいんだけど……。簡単にはいかないと思う。吸血    
 鬼ってだけで信じてないんだから」
「ま、それもそうだけどね。とにかく薫が協力してくれるなら    
 こっちも凄く助かる。このままだと黒羽様のせいで吸血鬼は    
 皆殺しにされかねないからね」
 薫は何も言わずに頷いた。人間に災いをもたらす吸血鬼を討    
ち取ることに躊躇いはなかった。たとえそれが、今の主人であ    
っても……。
「とにかく、ブローチの件はこっちでも手を考えてみる。薫も    
 隙を探してほしい」
「分かったわ。あ、でも連絡したくなったらどうするの?」
「Nチャを使えばいい。ID教えるから」
「あ、うん……ちょっと待って」
 スマホを持つ人の半分は使用していると言われる通話アプリ    
のことを思い出して、薫は慌てて自分のスマホを取り出した。    
同時に、これがあれば黒羽にも知られずに連絡が取り合えるこ    
とに気づく。
「パスワード管理には気をつけて。薫は少しそそっかしいとこ    
 ろがあるからね」
「うん……。気をつけるから。響にもよく言われたし」
「響……妹さんだっけ? 黒羽様を討ち取れば呪いは解ける。    
 妹の為にも頑張らないとね」
 返事はしなかったが、薫は大きく頷いた。
 もはや迷っている暇はなかった。
 後は吸血鬼ハンターとして行動するだけだった。