第7話―(3)行動は一つだけ
                                
 雨は依然として止む気配を見せなかった。
 肌に触れる冷ややかな空気に秋の訪れを感じながら歩いてい    
た薫だったが、主人の黒羽がためらう様子を見せずに地下鉄駅    
に通じる階段を降りていったので、びっくりした。
「黒羽様、寺尾さんに連絡して車を回してもらいます。少し待    
 ってください」
「まさか私が地下鉄にも乗れないと思ってるの?」
「え? いえ、別に。ただ歩くのが嫌なのかと……」
「別に嫌いでもないわ。車で移動するのは単なる趣味よ」
 スマホを取り出していた薫だったが、黒羽の言葉にそれをポ    
ケットに仕舞った。主人と肩を並べて階段を降りる。
「……。聞きたいことがあるんじゃないの? 私に」
「何のことですか?」
「とぼけないで。私がこんな時に出歩いていた理由を知りたい    
 んでしょう?」
「答えてくれるのですか?」
「今は答えられないわ」
 肩透かしを食らって、薫は大きく溜息をついた。やっぱり黒    
羽は一筋縄ではいかない厄介な性格の持ち主だった。
「ただはっきり言っておくわ。銀座の事件に私は一切関わって    
 いない。自分の名前にかけて誓うわ」
「だったらなぜどこに行っていたか言えないんですか?」
「……。言えるわけないじゃない」
 黒羽が目を逸らしたのを、薫は見逃さなかった。後ろめたい    
ことがあるのは明らかだったが、それが何なのかまったく想像    
がつかない。
「従者である私にも言えないんですか?」
「貴方はまだ完全には従っていないじゃない。いつか私を殺す    
 つもりでしょう? すぐにロッテに殺されると思うけど」
「それは……」
 言葉が見つからなかった。自分は本当に黒羽に対して反逆が    
出来るのだろうか。明確な理由があれば可能かもしれなかった    
が、今では一つも見つからなかった。
「はっきりしないわね。いい加減私に従ったらいいじゃない。    
 悪いようにはしないし、藤間の家と手を結ぶことだって可能    
 になるわ。お互い利益があるのよ」
「だったら今日、どこに行ったか説明してもらえますか?」
 黒羽は何も言わなかった。ほんの一瞬、凄むような表情を浮    
かべたが、すぐに目線を外して歩く早さを上げる。
 あまりにも「らしくない」態度だった。
 嘘をつけないから黙ってるんだけど思うけど、やっぱり変。    
でも銀座の事件には関わってないと言い切ってるし。
 矛盾だらけだった。
 本能では黒羽を信じたいと思っていたが、別のどこかでは疑    
念が大きくなるのを抑えきれなかった。
 ……まさか、沙耶様の言っていたが本当なの? 黒羽様は自    
分の名前に賭けて嘘をつくことが出来る。今は嘘をつけないふ    
りをしているだけで本当は……。
 あまりに恐ろしい可能性に、薫は心の中で大きく首を振って    
否定した。もしそうだとすれば、<鮮血の夜明け>事件も銀座    
の事件の犯人も黒羽ということになる。
 それでも、薫は可能性を否定できなかった。
 もしそうだとすれば、黒羽に対して反逆する理由が存在する    
のだから……。

 翌日も雨は降り続いた。
 ニュースは依然として前日の銀座の事件を報じ続けていたが    
新しい情報が入らないためか、既に勢いは失われつつあった。    
 薫のスマホに、杏梨からの連絡があったのはそんな時のこと    
だった。
「とにかく一番近くの<T>に来て。どうせ全部筒抜けだと思    
 うけど確かめたいことがあるの」
 従姉妹の声は昨日と違って事務的そのものだった。感情が入    
り込み過ぎるのが欠点の少女とは思えないほどだったこともあ    
り、薫は思わず聞き返す。
「何の話? 黒羽様のこと?」
「そうよ。それ以外のことは無いでしょう?」
「……。だったら行くからちょっと待ってて。黒羽様は仕事中    
 だからすぐに行けるから」
 杏梨の返事がないことを不審に思いながらも、薫は着替えを    
済ませて屋敷を出た。一番近くの<T>……藤間家が都内各所    
に構える拠点までそんなに距離は無かった。
 嫌な予感がするわね。タイミングかタイミングだし、杏梨の    
様子も変だったし。昨日はいつもと同じだったのに。
 用件の内容は想像がつかなかったが、決していい内容ではな    
いことだけは分かった。とすると考えられるのは……。
 雨の中を歩き続け、テナントビルの一室に用意された<T>    
に入ってみると従姉妹の少女は既に待っていた。しかし、今ま    
で見たことがない程の仏頂面だったこともあり、思わず椅子に    
つくのを躊躇ってしまう。
「座ったら? 立ったままの方がいいの?」
「うん……。何の話?」
「黒羽のことよ。重大な事実が分かったわ。昨日の銀座の事件    
 現場に黒羽がいたという証拠が見つかったわ」
 椅子に座ろうとした状態で動きが止まった。問いかけるよう    
な視線を杏梨に投げかける。
「単にいたとか、調査してたとかそういうレベルじゃないの。    
 事件現場の防犯カメラの映像に黒羽が映っていたの。しかも    
 犯行の瞬間が」
「そんなはずないわ! 黒羽様は無関係よ! 名前にかけて誓    
 えるって言い切ってたから!」
「映像がウソをつくわけないじゃない。少し遠かったけど、誰    
 が犯人なのかはっきりと判る程だったそうよ。あたしは直接    
 確かめたわけじゃないけど、お偉いさんからの極秘情報だか    
 ら間違いはないわ」
「そんな……」
 全身の力が抜けたかのように、薫は椅子に座った。
 心の何処かでは想定していたのだが、いざ事実として突きつ    
けられると何も考えられなかった。
 どうなってるの? まさか、沙耶様の言う通り黒羽様は名前    
にかけて誓ってもそれを破ることが出来る……?
「正直、完全に見損なったわ。昨日会った時は確かに怖かった    
 けど話は分かりそうだったのに……。大虐殺の直後にあんな    
 に平然としてるなんて信じられない」
「わたしだって信じられない。黒羽様はそんなことなんかしな    
 いはずなんだから。よく言ってたのよ。虐殺をするのは下賤    
 な吸血鬼のすることだって」
「その本人が一番下賤だったんたじゃない。……こっちの立場    
 も考えてよ。昨日よりによって黒羽と直接会ったことを報告    
 した直後にこれなんだから。あたしの信頼までガタ落ち」
「本当に、黒羽様で事件を起こしたの? 黒羽様になりすまし    
 た別の誰かじゃないの?」
「何度も言ってるじゃない。映像に写ってたって。面割をした    
 のはハム……公安の担当者だから間違いないわ。変装だって    
 ハムの手にかかったら無意味だって知ってるでしょう?」
 薫は何も言わずに頷いた。存在自体が極秘とされているもの    
の、公安警察内にも対吸血鬼の専門部署があることはよく知っ    
ていた。
「こうなると矛盾が出てくるわね。黒羽は自分は犯人ではない    
 と名前にかけて誓ったんでしょう? もしその誓いを破れば    
 その報いを受けるはずなのに何も起きていない。どういうこ    
 とか分かる?」
 杏梨からの問いかけに、薫は言葉に詰まった。沙耶からの情    
報が確かならば、その矛盾は解決する。しかし、同時に黒羽に    
対する信頼がほぼ失われてしまう……。
「ねえ、何か知ってる? あんたなら知ってるはずでしょう?    
 だいたいこんな時に黙るのは怪しいわね」
「……」
「そんな顔をして誤魔化そうとしても駄目。知ってるのは分か    
 ってるんだから。言うまで帰さないから」
 薫の心の中に、大きな川の光景が浮かんだ。この川を一度渡    
るともう二度と戻れない。ここ数ヶ月続けてきた日常は崩壊し    
行き場を失う。それでも……。
「確かめたわけじゃないけど……」
 数分間の沈黙の後、薫は川を渡る覚悟を決めた。杏梨の情報    
に間違いがあるとは思えなかったし、何よりも黒羽に裏切られ    
たような気がしてきたからだった。
「黒羽様は呪いを無効にするブローチを身に着けてるの。それ    
 があればどんな嘘をついても報いを受けることがないのよ」    
「……。本当に? もし本当だったら凄い情報なんだから!」    
「確かめてないのよ。ただ、沙耶様がそう言ってたの」
「沙耶って……あの五橋沙耶?」
「沙耶様も黒羽様に疑いを抱いてるの。それで……」
「あんたに教えてくれたってわけね。……何か変な感じがする    
 わね」
 大きく息を吐きだした後に続いた従姉妹の言葉に、薫はびっ    
くりして顔を上げた。
「沙耶の動きも探っているんだけど、ほとんど分からないのよ    
 ね。何を考えているかも分からないし。だからあたし個人は    
 どうも好きじゃないのよね」
「好き嫌いの問題じゃないと思うけど」
「黒羽はまだ分かりやすいのよ。本人も隠す気は無いみたいだ    
 けど。だから沙耶は気になるの」
「でも沙耶様からの情報が無かったらどうにもならなかったじ    
 ゃない」
「そうなのよね……。で、これからどうする気? もし黒羽を    
 討つなら協力するわよ」
「黒羽様を、討つ……」
「しっかりしてよ。その為に黒羽の元に潜入したんでしょう?    
 取り込まれて何もかも忘れたの?」
「そういうわけじゃないけど……」
 言い訳したものの、従姉妹の言う通りだった。黒羽が銀座の    
事件の犯人だとすれば、<鮮血の夜明け>事件を起こした可能    
性も極めて高くなる。とすれば、元吸血鬼ハンターである薫の    
行動は一つだけだった。
「でも難しいわね。響すら失敗した相手なんだから。あたしが    
 手を貸してもどうにもならないし……」
「その件については考えさせて。じゃ、また連絡するから」
 最後は早口になって言い切ると、薫は席を立った。呆然とす    
る杏梨に構わず部屋から出る。
 しなければいけない事はわかっていた。
 しかし、その方法は検討もつなかった。