第7話―(1)黒羽が消えた

 少しずつ、夏も終わりに近づきつつあった。
 9月に入ると熱さも少しは緩み、いつも忙しく働いている薫    
は少しばかりほっとしたが、内心ではずっと気にかかっている    
ことがあった。
 言うまでもなく、沙耶から告げられた<事実>だった。
 黒羽様は呪いを無効化するブローチを身に着けているからた    
とえ偽の誓いをしても呪いを受けことはない。そんなことって    
あるの?
 9月最初の金曜日の夕方。仕事の合間に自分の部屋に戻って    
きた薫は、椅子に座って大きく肩を落とした。
 信じられない……。黒羽様がそもそも嘘をつくなんて考えら    
れないし、どう見ても<鮮血の夜明け>事件の犯人は見えない    
のに。
 もし黒羽が<鮮血の夜明け>事件の犯人ではないとすれば、    
薫が黒羽に歯向かう理由は無くなる。妹の響を昏睡から開放す    
る必要はあったが、交渉次第で解決できると思っていた。
 黒羽様はわたしを本当の従者にしたいだけ。それならば響に    
かけられた呪いを解くのと引き換えにすれば多分、応じてくれ    
る。響は元に戻るからそれでいいんだけど……。
 それだけに、沙耶の言葉が気になって仕方なかった。もし本    
当ならば、薫は命に代えても黒羽を討たねばならなかった。
 確かめる方法が無いし、沙耶様の言葉だけでは証拠にならな    
いし。どうすれば……。
「薫、入っていい?」
 突然、扉が開いて黒羽の声が耳に入ってきた。慌てて返事す    
ると、悠然とした態度で足を踏み入れてくる。
「黒羽様? どうかされたんですか?」
「別に。ちょっと暇になったから貴方の顔を見に来ただけ」
「いつも見てるじゃないですか」
「そういう意味じゃないの。自分の部屋で暇そうにしてる貴方    
 の顔を見に来たの」
 平然と言い切って、黒羽はおかしそうに笑った。意地は悪か    
ったが、悪意から発せられたものではないことは態度からも明    
らかだった。
「で、考えてくれたかしら?」
「……何をです?」
「決まってるじゃない。本当の従者になる件よ。まだ貴方が完    
 全に従者になっていないことぐらいお見通しなんだから」
「え?」
 抑えきれず、声が出てしまった。
 黒羽との戦いに敗れた後、薫は血を与えられて吸血鬼の従者    
となった。しかし、首の後に彫られた護符の効果でわずかなが    
らも吸血鬼ハンターとしての<矜持>は残ったままだった。
 それを黒羽は突いてきたのだった。
「首の後に護符を彫るなんて人間らしい浅知恵ね。貴方は髪が    
 長いから普通は見えないけど、私は全部知ってるのよ」
「……最初から、ですか?」
「従者にして少ししてから気づいたわ。貴方は忠誠心が薄いか    
 ら何かあると思ってたら案の定だったわね。ちなみに抱きし    
 めた時に気づいたのよ。こんな風に」
 返事をする間もなかった。気がついた時には、薫は黒羽にベ    
ッドに押し倒されていたからだった。
「黒羽様……」
「本当はね、これが目当てだったの。ちょっと暇だから遊んで    
 あげる」
「わたしなんか遊ばなくてもいいじゃないですか……」
「何のために従者にしたと思ってるのよ」
 そう言いながら、体を密着させてくる。石鹸の香りが漂う中    
で、黒羽の顔を間近で見ることになる。何も知らなければ、古    
風な雰囲気の美少女そのものの美貌だった。
「早く貴方をものにしたいわ。ずっと待ってるんだから」
「だったらすぐに響を開放して下さい。そうしたら、わたしは    
 何でもします」
「だったら私を殺すことも諦めるのね。完全に従者になるのだ    
 ったら考えてもいいわ」
「それは……」
 返す言葉が見つからなかった。
 本当にそれでいいのだろうか?
 箱庭の中で沙耶と戦って以来、薫はずっと悩み続けていた。    
今の中途半端な状態を続けるぐらいならば、藤間の家とは縁を    
切った方がいいのではないか?
 そう思ってはいたのだが……。
 もし黒羽様が嘘をついているなら大変な思い違いをしてるこ    
とになるし。でも確実な証拠は……。
 密着していた黒羽の体がわずかに離れた。胸元のリボンが少    
しずれて、血のように紅いルビーのブローチがわずかに見える    
ようになる。
「黒羽様。いつもしているルビーのブローチですけど、それを    
 付けていると全ての呪いを退けるのですか?」
「これね。全てといってもいいわね。代々受け継がれてた当主    
 の証のようなものだから」
 薫を弄ぶことに興味を無くしたのか、黒羽は薫から離れた。    
ベッドの上に座ったままで胸元のブローチを見せる。
「……もしかして、私が嘘をつく可能性を考えてる?」
「え? そんなことは……」
「嘘をついたことに対する報いは呪いじゃない。それだけは言    
 っておくわ」
「黒羽様……」
「これで納得したかしら? 元吸血鬼ハンターの藤間薫さん」    
 口調は辛辣だったが、黒羽はおかしそうに笑っていた。とて    
も嘘をついているとは思えず、薫は全身から力が抜ける。
「何度も言うけど、貴方次第なのよ。いい返事を待ってるわ」    
 再び、黒羽が抱きついてきた。為す術なく受け止めながらも    
薫は、どうしたらいいのか分からないままだった。

 翌日は、朝から雨だった。
 夏の終わりを告げるかのような天気に、薫は屋敷に来てから    
の時間の長さを思う。
「薫は雨が嫌いだったかしら?」
 朝食の後、悠然とした動作で寺尾の淹れた紅茶を飲んで、黒    
羽は問いかけてきた。
「そんなことはありません」
「なんか浮かなそうな顔をしてるからよ。いつもはっきりしな    
 いけど、今日は寝ぼけたような顔をしてるわ」
「別に……。寝ぼけてなんかいません」
「わかってるわ。言ってみただけ」
 陶器と陶器の触れ合う音を残して、黒羽が席を立った。肩を    
越えた髪を軽く後ろにやって言い切る。
「今日これといって予定は無いわね?」
「はい。朝からオンラインゲームですか?」
「別にそういうわけじゃないけど……。部屋で待機してて。用    
 があったら呼ぶから」
「分かりました」
 特に疑問を持たずに薫は頭を下げ、黒羽の元から離れた。暇    
潰しのゲームをしないという事は、寺尾と共に仕事……烏丸商    
事に関する打ち合わせでもするのだろう。
 元高校生の少女には縁遠い世界のことなので、おとなしく部    
屋へと戻る。
 特にすることもなかったので、スマホで意味もなく暇を潰し    
ていた時のことだった。
 扉がノックされたかと思うと、寺尾の声が聞こえてきたので    
少しばかりびっくりした。
「寺尾さん? どうしたのですか?」
「朝食の後から黒羽様の姿が見えないのです。何かご存知では    
 ありませんか?」
「え? 黒羽様は仕事ではありませんか?」
「違います。私はてっきり、貴方と一緒だと思っていました。    
 ……入ってもよろしいですか?」
「大丈夫です」
 いつもより取り乱した様子で、寺尾が入ってきた。律儀で規    
律を重んじる執事の初めて見る姿に、薫は事の重大性を悟る。    
「どういうことなんですか? わたしか、寺尾さんに何も言わ    
 ずにいなくなるなんて」
「分かりません。今までそんなことはありませんでした。必ず    
 誰かが側にいましたから」
「たまには単独行動をするんじゃないんですか? 黒羽様とい    
 えど一人になりたい時があるはずです」
「そうですが……。何かが違うような気がするのです」
 困惑を隠せない様子で、寺尾は眼鏡を上げた。しばし何かを    
考えていたようだったが、自分を納得させるように言う。
「薫さんの言う通りかもしれませんね。外見は令嬢ですが、黒    
 羽様は烏丸家の当主。一人で何かすることもあるかもしれま    
 せんね」
 薫は何も言わずに頷いたものの、違和感は消えなかった。
 黒羽が一人になるのは就寝時を除けば、部屋に篭もる時ぐら    
いで、たいていは薫から寺尾が控えていたはずだった。
 何かありそうね。でも、わたしにも寺尾さんにも言えない事    
情なんて無いはず……。
「とりあえず、少し待ってみませんか? 黒羽様のことですか    
 らふらりと戻ってくるような気がします」
「そうですね。でも、屋敷内にいないとなると外出だと思いま    
 すが、どこに行ったのか……」
「黒羽様が、一人で?」
 あまり想像がつかなかった。外出というと、寺尾の運転する    
車の後部座席に収まっている姿しか浮かばなかった。
 お嬢様と言っても一人で外出ぐらいできるわね。目立って仕    
方ないかもしれないけど。
「とにかく、何か分かったら連絡して下さい」
「分かりました。寺尾さんの方もお願いします」
 実直な執事は大きく頷くと、さっきよりは落ち着いた様子で    
部屋から出て行った。その後ろ姿を見送ってから、薫は小さく    
溜息をつく。自分も寺尾も振り回されてばかりだった。
 まったく、我侭なんだから……。
 そんな事を考えながら、スマホの画面に目線を戻す。
 オンラインニュースのサイトを見ていたことを思い出し、反    
射的に画面を更新する。
 「銀座のビルで大量殺人事件発生」という衝撃的な見出しが    
普通のニュースと同じように淡々と表示され、一瞬呼吸が止ま    
った。
 えっ……。まさかまた……!
 慌ててリンク先をクリックしたものの、銀座にあるビルの内    
部で数十人単位で犠牲者が出たことしか分からなかった。
 薫はまだ知らなかったが、これが後に<紅の雨>事件と呼ば    
れる凶行の第一報だった。