第5話―(3)七瀬の部屋にて
                                
 異世界からの来訪者を迎え入れた日は忙しく過ぎていった。    
 薫は従者として、そしてメイドのトップとして働かなくては    
ならず広い屋敷内を走り回っている内に夜も更けてしまった。    
「やっと落ち着いたわね……」
 歓迎会を兼ねた夕食が終わって、薫は肩を落として息をつい    
た。寺尾は「しっかりしてきました」と言ってくれたが、当の    
本人はそんな風には思っていなかった。
 疲れたわね……。とりあえず一休み一休み。
 厨房を出て、屋敷の西館にある自分の部屋へと向かう。この    
後仕事は無いはずだったが、ロッテたちが来ている以上また呼    
び出される可能性は十分にあった。
 でもロッテ様たちを話をしていると面白いわね。異世界のい    
ろいろな話を聞けるし。しかもあの方は黒羽様と違って寛容だ    
し。
 同じ吸血鬼だったが、性格は正反対だった。従者として仕え    
るならば躊躇わずにロッテの方を選んでしまう程だったが、当    
のロッテに従者はいないように思えた。
 ユラが一番近いわね。昔ロッテ様に助けられてから絶対の忠    
誠を誓ってるし、とっても真面目だし、何より強いし。……ま    
た手合わせさせてもらおうかな。
 同じ<剣士>ということもあり、お互いに親近感を覚えてい    
る少女のことを思い浮かべながら自分の部屋に通じる扉を開け    
た時のことだった。
 誰も居ないはずの室内に複数の人影を認めて、反射的に身構    
えてしまった。
「驚かせて悪いわね。ちょっとだけ話があるの」
 人影の一つはロッテだった。椅子に腰掛け、腕組みをして薫    
を見据えていた。いつものように悠然としていて、悪意などは    
まったく感じられなかった。
「ロッテ様?」
「さっきも話題になったけど七瀬のことよ。貴方はどう思って    
 る?」
「どう思ってると言われましても……。七瀬さんのことはよく    
 知りません」
「正直ね。ま、直接知らないんだから当然だけど、これだけは    
 言えるわ。あの子は理由もなく自殺なんかしないと」
「黒羽と七瀬はお互いに深い信頼関係で結ばれていた。それな    
 のに何も言わずに自殺するなんて不自然だと思わない?」
 ロッテの横に立つスノウが淡々とした口調で続ける。その瞳    
にはいつもの事ながら感情らしきものは浮かんでいなかった。    
「ロッテが言わないからはっきり言うけど、七瀬は自殺するよ    
 うに仕向けられたのよ。黒羽に最大限の打撃を与える為に」    
「誰が黒羽を狙ってのかは分からない。ただ、これだけは言え    
 る。黒羽を狙った者は私が絶対に許さないと」
 ロッテが言い切った瞬間。部屋の空気の温度が大きく下がっ    
たような気がして、薫は全身を震わせた。魔力を持たない人間    
でも感じることができる程強烈な<力>が、小さな部屋を満た    
していた。
「だから貴方に期待してるのよ。貴方は黒羽の従者。主人の目    
 が曇ってるならば晴らすのも大事な役目よ」
「今の黒羽は現実から目をそむけてるわ。私たちが何を言って    
 も無駄。だから貴方に頼みたいの」
「そう言われましても……。私は元は言えば吸血鬼ハンターで    
 妹の響も……」
「妹さんの件も知ってるわ。でも黒羽がいつまでもこのままに    
 してると思う?」
「え?」
 思いがけない言葉を聞いたような気がした。黒羽は響に術を    
かけた後、気にする素振りを見せたことはなかった。自分をお    
びき出すための罠に使ったことを証明するかのように。
「妹さんにかけられた術を解く条件をもう一度思い出してみた    
 ら? 二つあったはずよ」
「ロッテ、それ以上言わなくてもいいわ。後は薫が自分で何と    
 かするはず」
「それもそうね。じゃ、私たちは戻らせてもらうわ。今頃おろ    
 おろしてるかもしれないし」
 黒羽が慌てるところは想像もつかなかったが、ロッテは笑っ    
て言い切るとスノウと共に部屋から出て行った。
 その背中を見送って、薫は大きな溜息をつくのだった。

 一休みすることなく、薫が自分の部屋から出たのはしばらく    
してからのことだった。
 まさかロッテたちから色々言われるとは思っていなかったこ    
ともあり、頭の中は混乱していた。
 ロッテ様はやっぱり七瀬さんのことが気になるのね。さっき    
もあえて話題にしてたぐらいだし。でも、わたしは七瀬さんの    
ことはまったく知らないのに。
 話だけならば、寺尾などからも聞いていた。薫と違ってごく    
普通の人間だったが、黒羽には絶対の忠誠を誓っており、非常    
に信頼されていたという。
「一言で表すならば、姉妹に近い関係でした。七瀬さんの方が    
 年下でしたので甘えているような感じでしたね。それを黒羽    
 様はしっかりと受け止めていました」
 そんな関係だっただけに、七瀬が自殺したと聞いた時には当    
然、事故や事件も疑ったという。しかし、自殺以外の明確な証    
拠は出てこなかった。
「それ以来、薫さんが来るまで黒羽様は明らかに落ち込んでい    
 ました。元に戻ったのは薫さん、貴方のお陰です」
 寺尾にそう言われて思わず溜息を漏らしてしまったが、事実    
は事実だった。
 だからロッテ様たちは七瀬さんについて調べるようにって言    
ってきたのね。杏梨にも頼んでるけど。
 偵察担当の従姉妹とは、あれから一度も会っていなかった。    
連絡してみたものの「まだ調査中」というぶっきらぼうな回答    
が返ってきただけだった。
 ……。今の内に、少し調べてみる? 黒羽様はロッテ様たち    
と一緒のはずだからこっちには来ないし、屋敷内の鍵も預かっ    
てるし。
 調べたい場所が一つだけあった。前に間違って鍵を開けてし    
まった七瀬の部屋だった。
 あそこに何かあるのかも。でも、黒羽様が調べてるはずだか    
ら何かあればとっくに出てきてるはず……。
 廊下の真ん中に立ち止まって、しばらく迷っていたもののや    
がて決意は固まった。黒羽に邪魔されずに調査するならば、今    
しか機会はなかった。
 屋敷の中央館を通り抜けて、東館に足を踏み入れる。途中、    
居間の方から賑わう声が聞こえてきたが、黒羽はロッテたちと    
雑談に興じているようだった。
 ……もしかして、ロッテ様たちが気をそらしてくれているの    
かも。こんな機会、滅多に無いんだから。
 異世界の吸血鬼の心遣いに感謝しながら目的の部屋の前まで    
来る。東館の隅、薫の部屋とはちょうど対象的な位置だった。    
 七瀬さんのことを思い出したくないからあえて正反対の部屋    
を用意したのかも。東館の方にはほとんど来ないし。
 記憶を頼りに、鍵束から扉の鍵を選んで扉を開ける。
 最初に感じたのは、真夏とは思えないほどひんやりとした空    
気だった。
 冷房……じゃないわね。もっと本質的なもの。もう二度と返    
ってこない誰かを待っているかのような空気……。
 吸血鬼ハンターとしての鋭い感性に直接訴えかけてくる声な    
き声を<聞いた>ような気がして、薫はその場から逃げ出した    
くなった。しかし、今回を逃すと機会は無いと思い直して部屋    
の中央まで進む。
 大きな窓に面した机と椅子、壁際のクローゼット、反対側に    
はベッド、そして洋風のテーブルと椅子のセット。間取りも家    
具も、薫の私室とまったく同じだった。
 違うのは壁に掛けられた絵と、これだけね……。
 机の上に置かれていた写真立てを手に取って、薫は心の中で    
つぶやいた。
 黒羽様と一緒に写ってるメイド服姿の子が七瀬さんなのね。    
凄く仲が良さそう……。黒羽様も気を許してるし。
 この屋敷を背景に中庭で写された写真は、幸せそうにしか見    
えなかった。それでも七瀬は自ら命を断った……。
「……え?」
 いたたまれなくなって写真立てを元の場所に戻そうとした薫    
だったが、わずかな違和感を覚えて写真を見直した。よく見る    
とやっと分かるその感覚の正体は……。
 ……単に写真が傾いてるだけじゃない。気にし過ぎ。
 七瀬という少女はあまり器用ではなかったのか、写真立ての    
中で写真は少しだけ右下がりになっていた。
 余計な所にはすぐ気がつく自分の感性に溜息をついた薫だっ    
たが、写真立てを裏返して裏側の蓋を取る。お節介だとは思っ    
たが、ちゃんと直そうと思ったのだった。
 こんな事ばかりしてるから藤間の家でも厄介者扱いだったの    
に。まったく……え?
 写真の裏側に指が触れた瞬間。思いがけないものが目に飛び    
込んできて、薫は呼吸が止まった。そこには鉛筆でこう走り書    
きされていた。
<魔眼に気をつけて。七瀬>
 これは……七瀬さんのメッセージ? 魔眼ということは……    
沙耶様?
 室内の空気が重さを伴って襲いかかってきたような気がして    
薫は俄に恐ろしくなった。かつて、沙耶から殺意に満ちた紅い    
瞳を向けられたことを思い出す。
 人を籠絡する魔眼。それに気をつけろっていうの? どうし    
て七瀬さんがそんなメッセージを残す必要があったの?
 心の奥底では何かと何かが繋がりかけているような気がして    
いた。しかし、薫はそれから目を背けるかのように裏蓋をはめ    
直し、写真立てを元の場所に戻す。
 分からない……。沙耶様の実力は大したことがないって最近    
だって聞いたのに。七瀬さんは普通の人間だから恐ろしく見え    
たってこと?
 それもありえないような気がした。そもそも主人として仕え    
ていた黒羽は世界でも有数の実力者である。その後ろ盾がある    
ならば沙耶を恐れる必要は無いはずだった。
 少なくとも七瀬さんと沙耶様が繋がったわね。そう言えば初    
めて沙耶様に会った時も七瀬さんのことを言っていた……。
 さらに室内の空気が重く、冷たくなったような気がして、薫    
は恥も外見もなく七瀬の部屋から飛び出した。
 見えない包囲網が自分に迫っているような、嫌な感じがして    
ならなかった。