第5話―(1) プールサイドにて

 目の前の水面はまるで鏡のように静かだった。
 もしかすると、今日はまだだれも飛び込んでいないのかもし    
れない。
 そんな事を考えながら、薫はすぐ横に目を向ける。主人であ    
り、吸血鬼でもある少女……黒羽はプールサイドに置かれたビ    
ーチチェアに悠然と座っていた。
「座ったらどう? 従者だからっていつも立ってる必要は無い    
 んだから」
 視線に気づいて、黒羽はからかうような口調で言った。
「それとも、こんな場所は初めてだから馴染めないの? いい    
 加減慣れなさいよ」
「分かってますけど……」
 黒羽の隣のビーチチェアに腰掛けて、薫は肩を落とした。
 都内でも最高級にランキングされる外資系ホテルの一角にあ    
るプールにいるのは、水着姿の吸血鬼の少女とその従者だけだ    
った。
「ここ……貸し切りなんですよね? 誰も来ないってことは」    
「当然じゃない。私はこのボテルのプラチナメンバーなんだか    
 ら。支配人だって挨拶に来たじゃない」
「ですよね……」
「貴方も好きにしていいのよ。表向きは友人ということになっ    
 てるんだから」
「分かってます。でも、どうしたらいいのか分からなくて」
「小心者なのに正直なのね。そこがいいんだけど」
 ビーチチェアから身を起こして、黒羽は笑った。すらりとし    
た肢体を大胆な水着で包んだその姿は、雑誌のグラビアモデル    
のようにしか見えなかった。
「さっきも言ったけど、今日はゆっくりしなさい。しばらくし    
 たらまた忙しくなるんだから」
「ロッテ様たちが来るからですよね?」
「当然じゃない」
 薫がその話を聞いたのは、前日の事だった。なんでも、今週    
末に行われる東京湾大花火大会に合わせて来訪し、しばらく滞    
在するという。
「向こうに誰もいなくなって大丈夫なんですか?」
「戻る時は魔法で一瞬の内に戻れるから問題ないってロッテも    
 言ってたわ。貴方が心配することはないの」
「そうですけど……。向こうも色々あると聞いてますから」
「吸血鬼の世界は弱肉強食。隙を見せたら喰われるだけ」
 漠然と感じていたことを、黒羽ははっきりと言い切った。     
 吸血鬼ハンターだった時はよく分からなかったが、吸血鬼の    
世界にも激しい勢力争いがあるようだった。
 だからあんな事件を起こしたの? ……そうとは思えないけ    
ど。そもそも動機がはっきりしないんだから。
 一夜で数百人もの人間が血の海に沈んだ<鮮血の夜明け>事    
件。その犯人は黒羽のはずだったが、不明瞭な点が多過ぎた。    
 その最たるものが<動機>だった。
 黒羽様が何も言わないから悪いのよ。犯人ならば全て話して    
くれればいいのに。でもこの事になると曖昧になるんだから。    
「何か言いたいことでもあるの?」
 従者の少女の恨みがましい視線に気づいたのか、黒羽が笑み    
を消して問いかけてくる。
「黒羽様。貴方が<鮮血の夜明け>事件の犯人なんですよね?    
 いい加減、全てを話してください」
「それが何になるというの? 別にいいじゃない。終わった事    
 なんだから」
「でも寺尾さんたちは貴方が犯人ではないと言ってるんです。    
 どういうことなんです?」
「寺尾たちがそう思い込んでるだけよ」
 不機嫌そのものな声で言い切って、黒羽は立ち上がった。呆    
然とする薫に構わず、そのままプールに飛び込む。盛大な水し    
ぶきが上がり、薫にも一部がかかる。
 ……。やっぱりおかしいわね。はっきりさせようとしない。    
ずっとこんな感じじゃない。犯人ならばはっきりと言えばいい    
のに。
 そう思って何度も迫っているものの、いつも逃げられてしま    
うのでストレスが溜まるばかりだった。
「貴方は泳がないの?」
 そんなことを考えながらぼんやりしていると、黒羽がプール    
サイドまで戻ってきた。濡れた黒髪の一部が顔にかかり、いつ    
もよりずっと妖艶な雰囲気を漂わせている。
「泳ぎは得意じゃないんです。何でも万能な黒羽様とは違いま    
 す」
「言うわね。私だって苦手なものぐらいはあるわ。でもそれを    
 見せないでいるだけ」
「……そうなんですか?」
 どこまで本当か分からない主人の言葉に、再び困惑してしま    
った時の事だった。
「やっぱり貸切状態じゃない〜。たまにはいいわね」
 聞き覚えのある少女の声がプールに響き渡った。

 声が屋内で反射し終わるよりも早く、黒羽はプールから上が    
った。全身から水を滴らせながら、その方向を睨みつける。
「なんで貴方がここにいるの、沙耶」
「固いこと言わないでほしいわ。同じ日本の吸血鬼じゃない」    
 貸し切りのはずの屋内プールに入ってきたのは、水着姿の五    
橋沙耶だった。
「ここは私が借りてるの。貴方が入ってきたということは例の    
 術を使ったのね」
「たまにしか使わないからいいじゃない。このホテルの支配人    
 をちょっと騙しただけなんだから。ね、玲」
「はい。それ以外のことはしていません」
 中性的な魅力を持つ少年従者は主人の後ろに影のごとく寄り    
添っていた。薫と目が合うと、軽く片目を閉じてみせる。
「人を籠絡する魔眼。私の箱庭の能力よりずっと応用範囲が広    
 そうね」
「なかなか便利よ。貴方と違って大した力も無いから」
「こんな下らないことには使わないでほしいわね」
「ま、いいじゃない。吸血鬼同士、仲良くしましょうよ。異境    
 のお友達みたいにね」
 何を言っても、沙耶には通じないようだった。呆れたのか、    
黒羽が軽く肩を落とすと、少女吸血鬼は笑いながら空いている    
デッキチェアに腰かける。
「玲、何か飲み物貰ってきて。黒羽たちの分もね」
「はい、沙耶様」
「あ、わたしも手伝う?」
「薫はゆっくりしてていいよ。沙耶様から命令を受けたのは僕    
 だからね」
 誇りと共に言い切られては返す言葉を見つけられず、薫は従    
者の少年の姿を見送った。
 中途半端な立場である自分とは大違いだった。
「黒羽の従者は相変わらずね。らしくないじゃない」
「私が気に入っているからいいの。薫も薫よ。もっとしっかり    
 しなさい」
「そんな事では吸血鬼の世界では生きていけないわ〜。日本を    
 狙ってる海外の吸血鬼だっているんだから」
「少なくとも中国の王(ワン)は狙ってないわ。手打ちしてる    
 し、余裕だって無いんだから」
「北米はどうかしら? あのおじいさん、まだ日本を諦められ    
 ないでいるじゃない」
「ゴールドスミスならサンチェスとの喧嘩で手一杯じゃない。    
 背中を見せた途端に刺されるはずよ」
 少女吸血鬼ふたりのやり取りには、薫には理解できない部分    
が混じっていた。それでも、世界規模で繰り広げられている吸    
血鬼たちの権力闘争の話であることは何とか理解できた。
 確か寺尾さんも言ってたわね。でも、話を聞く限りでは黒羽    
様は上手くやっているような気がするけど……。
 そこまで考えた途端、薫の心にある考えが浮かんだ。
 もし<鮮血の夜明け>事件の犯人が黒羽ではないとするなら    
ば、日本を狙う海外の吸血鬼ではないかと考えたのだった。
 ……今まで思いつかなかった。別に犯人がいるならばおかし    
くないんだから。でも、誰なのか分からなければ黒羽様も言う    
はずがない……?
 しかし、それでも疑問はあった。ならばなぜ、黒羽は自分が    
犯人ではないと言い切らないのだろうか。
 わからない……。曖昧にしておくのが一番だと思ってるのか    
もしれないけど、そんな理由思いつかないし。
「でも<鮮血の夜明け>事件は誰が起こしたのかしらね。あん    
 な事件を起こせるのは実力のある吸血鬼しか考えられないの    
 に〜」
 自分の考えに沈んでいた薫だったが、沙耶の言葉に我に返っ    
た。お嬢様風の少女吸血鬼は少しだけ目を細めて続ける。
「黒羽、貴方じゃないの? 貴方ならば簡単なはずよ」
「理由は? 理由がないじゃない」
「吸血鬼が暴れる事に理由がいるなんて初めて聞いたわね〜。    
 さすがは名門の吸血鬼は違うわ」
 黒羽の発する怒りのオーラが、隣に立つ薫の肌に突き刺さっ    
ていた。初めて対決した時よりも強烈な感情の発露に、薫は内    
心恐ろしくなる。
 沙耶様……なんでそんな事を言うの? 仲がいいのはやっぱ    
り表向きで敵視してる? でも黒羽様はなんで……。
「飲み物持ってきました」
 息も詰まるような緊張感は、少女のような少年の声によって    
一瞬の内に霧散した。
「玲、ありがとう」
「いえ。黒羽様も薫もどうぞ」
「済まないわね」
「……ありがとう」
 戸惑ったまま、薫はトロピカルドリンクを受け取った。目を    
合わせると、玲は再び片目を閉じてみせる。
 空気を読んだのね。玲らしいけど……。
「薫も大変だね。色々と」
「そう?」
「今度異境の吸血鬼たちが泊まりに来るって聞いてさ。また仕    
 事が増えるな〜って」
「準備なら寺尾さんが仕切ってるからわたしは言われたとおり    
 にするだけ。そんなに大変じゃないかも」
「でも異境の吸血鬼を友人にしているのは黒羽様だけじゃない    
 かな? しかも同盟関係だしね」
「ロッテとは利害関係が一致してるからよ」
 表情を変えずに玲の持ってきたジュースを飲んでいた黒羽が    
会話に加わる。沙耶はプールを眺めているだけで何も言おうと    
はしない。
「お互い何かあったら相手を助ける。この約束が出来るだけで    
 も心強いものよ」
「もし<セブンシスターズ>の誰かが攻め込んできてもロッテ    
 様とのコンビで潰せるというわけですか?」
「そういうこと。ロッテは私と同じぐらいの実力があるのよ」    
「でしたね。そんな黒羽様を相手にするのは愚かですよね」
 黒羽は笑って何も言わなかった。ようやく機嫌が直ったらし    
いことに気づいて、薫は安堵する。
 玲に助けられたわね。でも、ロッテ様との同盟があるなら海    
外の吸血鬼も手を出してこないってこと……?
 解けないでいる疑問がまた浮かんできて、薫は小さく首を振    
って誤魔化した。
 黒羽が何も言わない以上、答えは分からないままだった。