第4話― ()  杏梨からの接触
                                
 翌日は、打って変わってよく晴れた。
 従者としての仕事が休みなのをいいことに、自分の部屋のベ    
ッドで惰眠を貪っていた薫だったが、控えめなノックの音に目    
を覚ます。
「薫さん、朝食を持ってきました」
「春奈さん……あ、今開けます!」
 ドアの向こうにいるのが厨房担当の先輩メイドであることに    
気づいて、薫は慌ててベッドから出てドアを開けた。
「あ、済みません。まだお休み中でしたか?」
「ぐすぐずしてただけです。……こんな格好で済みません」
 自分がパジャマ姿であることに気づいて、薫は赤面した。
「気にしてませんよ。お休みの日は私も似たようなものです」    
「春奈さんも? ちょっと信じられません」
「人には見せたりしませんけどね。寺尾さんにはナイショにし    
 ておいてください」
 先輩メイドのいたずらっぽい言葉に、薫は笑って頷いた。
 春奈と寺尾の仲は、屋敷内では公然の秘密だった。
「今日はどうされるつもりですか?」
 薫の為に紅茶を淹れながら、春奈が訊いてくる。
「とりあえず買い物にでも行くつもりです。まあ、半分は気分    
 転換ですけど」
「いつも黒羽様と一緒では気が休まりませんからね」
「みんな同じことを言うんですね」
「事実ですから仕方ありません。でも、ああ見えても私たちに    
 はとても気を使ってるんです」
「でも吸血鬼なんですよね、黒羽様は」
「関係ありません。もし黒羽様が普通のお嬢様だとしても私は    
 喜んでお仕えしたと思います」
 少しだけ春奈の口調が強くなった。びっくりした薫は慌てて    
顔を上げる。
「そもそも黒羽様は人間に危害を加えたりしません。血を吸う    
 のは本当に気に入った人間のみと決めているからです」
「……そうでしたね」
 こんがりと焼き上げられたトーストに手をつけながら、薫は    
思い出したように頷いた。
 従者になった直後に、黒羽にも直接確かめたのだった。吸血    
鬼であるならば、いつ血を吸っているかと。その答えは春奈の    
言葉とほぼ同じだった。
「ついでに言うと、吸血鬼だからって無差別に血を吸うのはハ    
 ンターに狩られるような下賎な吸血鬼のすること。烏丸家の    
 吸血鬼である私がそんなことするわけないじゃない」
 苛立ちと共に付け加えられて、黒羽のプライドの高さを改め    
て認識したものだった。
「……。だとすると、あの事件の犯人は……」
「<鮮血の夜明け>事件でしたら黒羽様が犯人のはずがありま    
 せん。あの方はそういう事を一番嫌うのです」
「だから昨日寺尾さんも犯人ではないと言ってたんですね」
「そういうことです。私も詳しくは知りませんけれど、犯人は    
 別の吸血鬼で間違いありません」
 フォークを持っていた薫の手が止まった。
 <別の吸血鬼>という言葉に強い引っ掛かりを覚えたからだ    
った。
「誰……なんですか? 別の吸血鬼というのは」
「私も詳しくは知りません。黒羽様か寺尾さんに聞けば分かる    
 と思います。吸血鬼の世界も人間同様複雑らしいのです」
 そう言って先輩メイドは眉をひそめた。これ以上話を続けら    
れても困るという意志を感じて、薫は食事に戻る。
 別の吸血鬼……日本にいる吸血鬼で黒羽様に勝てそうなのは    
いないわね。沙耶様がナンバー2だけど、家の調査では力の差    
は大きいってなってたし。とすると……海外?
 可能性としてはありえる話だったが、海外の事情については    
ほとんど知らなかった。吸血鬼ハンター・藤間家の活動は国内    
に限定されていたからだった。
 響は言ってたわね。海外の吸血鬼も日本の脅威になるから調    
べた方がいいって。でもうやむやにされただけで……。
「薫さん」
「なんですか?」
「黒羽様のことをもっと信じていいと思います。薫さんの過去    
 も、妹さんのことも知っています。でも、従者らしくして欲    
 しいんです」
「……。わかってます。でも……」
 言葉が続かなかった。黒羽を心の底から信頼する春奈の気持    
ちはよく分かったが、自分はいずれその黒羽を倒さなくてはな    
らないのだ。
 察してもらいたくても、言うわけにはいかなかった。
 わたしの心の九十九パーセントは黒羽様のもの。でも残りの    
一パーセントは吸血鬼ハンターとしてのもの。わたしは反逆の    
従者なんだから。
 その後、会話は生まれないまま食事は終わった。
 春奈は何も言わずに部屋から出て行ったが、その後姿を見送    
って、薫は大きな溜息をつくのだった。

 普段着に着替えた薫が屋敷を出たのは、昼前になってからだ    
った。
 近くの駅から地下鉄に乗り込み、新宿へと向かう。平日の昼    
間ということもあり、車内は混んでいた。
 地下鉄に乗るのも久しぶり。最近は黒羽様の付き添いで、寺    
尾さんの運転する車しか乗ってなかったし。
 乗車口のドアに寄りかかって車内の中吊り広告を眺めながら    
薫はとりとめなく思った。
 どんなに近くても車を出させるんだから。東京では地下鉄と    
かの方が便利なのに。……でも、本物のお嬢様だから仕方ない    
のかも。
 黒羽は表向き、由緒ある名家・烏丸家の令嬢として世間に知    
られていた。銀座の百貨店に買い物に行けばすかさず店長が礼    
を尽くして案内し、高級レストランに行けばシェフや支配人が    
心から歓迎する。そんな身分だった。
 裏の顔を知ってるのは藤間家と政府上層部、そして警察の一    
部ぐらいね。でも、あの事件までは何の動きもなかったからノ    
ーマークだったし……。
「次で降りて<T>に来て」
 突然。
 聞き覚えのある声が耳元で囁いて、薫は驚きを顔に出してし    
まった。慌てて辺りを見回すと、少し離れたシートに制服姿の    
少女が座ってスマホをいじっているのが視野に入ってきた。
 長い髪をリボンでツインテールにして、夏服を少しだらけて    
着こなすその少女は……。
 杏梨(あんり)……。まさか、わたしが外出するのを待って    
接触してきたの?
 すぐに目線を外して、薫は内心驚いた。
 制服姿の少女……藤間杏梨は同い年の従姉妹だった。吸血鬼    
ハンターではあったが、能力は薫を大きく下回っていることも    
あり、主に偵察や連絡役を担っていた。
 やっぱりわたしのことが心配だったのね。というより、藤間    
の家から命じられたのかも。まったく連絡していないし。
 列車が減速したかと思うと、窓の外にホームが見えてきた。    
 新宿三丁目駅。
 この駅から行ける場所にある<T>は一つしかないことを確    
かめながら、薫は停まった列車から降りる。
 杏梨も近くのドアから出たはずだったが、もちろん確かめた    
りはしない。
 地上に出ると、左手に伊勢丹本館を見ながら明治通りを靖国    
通りの方へと向かう。新宿に来るのは久しぶりだったが、杏梨    
が接触を求めてきたこともあって、少しだけ緊張していた。
 靖国通りを渡り、そのまま右折して新宿五丁目東交差点を過    
ぎ、しばらくしてから左折する。
 一方通行の細い通りを奥へと歩くと目的地である<T>こと    
「東京総合保険・新宿営業所」という看板を掲げたビルが見え    
てきた。
 ここは一度だけ使ったわね。確か……学校帰りに呼び出され    
た時だったと思うけど。
 吸血鬼ハンター時代のことを思い出しながら、ビルの横の通    
用口で認証を済ませて中に入る。階段を上った2階の一室が、    
政府が藤間家の為に用意した部屋だった。
「遅かったわね」
 再度入り口で認証を済ませ、中に入るのと同時に。刺混じり    
の少女の声が飛んできた。
 杏梨は質素なテーブルに両肘をついて、従姉妹の到着を待っ    
ていた。その表情には久しぶりの対面を喜ぶ雰囲気は感じられ    
なかった。
「吸血鬼ハンターから吸血鬼の従者になるなんていい身分ね。    
 こっちは大変だったのよ。響に続いてあんたまでいなくなる    
 んだから」
「……。ごめんなさい。連絡したくても出来なかったのよ」
 杏梨の向かいに腰掛けて、薫は言い訳した。
「従者だからあまり出歩くことも出来ないし、連絡したくても    
 他の人の目もあるし。だから杏梨が来てくれて助かったわ」    
「まったく暢気なんだから……。黒羽の手下に見張られてるか    
 もしれないと思うと怖くて仕方なかったんだから。あたしは    
 強い方じゃないし、襲われたらひとたまりもないわ」
「それはないと思う。黒羽様はそんなことをしないから」
 意識しない内に、薫は反論していた。杏梨が目を大きく見開    
いたことに気づいて、自分の言ったことに気づく。
「あんた……すっかり黒羽に取り込まれたわね。まさかと思っ    
 てたけど。それでも藤間家の吸血鬼ハンターなの?」
「黒羽様に血を分け与えられたからもうハンターでもないわ。    
 今のわたしは黒羽様の従者。それだけよ」
「……。話をしても無駄ね。あんたは死んだって報告しておく    
 から。そのつもりでいて」
「待って。話だけでも聞いて。ここなら何でも言えるから」
 杏梨が席を立ちかけたので、薫は慌ててその腕を掴んだ。従    
姉妹の少女は殺意を込めて睨み返してきたものの、「少しだけ    
よ」と言って座り直す。
「わたしは従者になったけど、完全じゃないわ。うなじに彫ら    
 れた護符があるからわずかに心は残ってるのよ」
「……。だったわね。すっかり忘れてたわ。護符なんて役に立    
 たないって思ってたのに。ということは、まだ黒羽を殺すこ    
 とが出来るの?」
「たぶん……。でも、隙がまったく無いし、武器も奪われてる    
 からすぐには無理だと思う」
「それじゃ死んだのと大差ないわね。でも、黒羽に関する情報    
 は貴重だから知ってるだけ話して」
 薫は無言のまま頷くと、今までの経緯を話し始めた。
 さっきまでとは一転して、杏梨は熱心に話を聞いてくれた。    
「それであんたも負けたわけね。……響が負けるのも当然ね。    
 箱庭の中に引きずり込まれたら力なんて出せないじゃない」    
 黒羽との対決に負けたところまで話が終わるのと同時に、杏    
梨は肩を落として溜息をついた。
「黒羽はとんでもない能力を持ってるのね。でも待って。黒羽    
 は本当にそんな能力を持ってるの?」
「もちろんだけど……。それがどうかしたの?」
「ちょっと思い出したことがあったのよ。遠い昔……藤間の家    
 にも同じような能力を持つご先祖様がいたの」