第3話―(4) <星>を詠む

 初めて異世界で迎える朝は、薫にとって複雑なものだった。    
「……。寝てるわね。当然かもしれないけど」
 隣のベットで主人である吸血鬼の黒羽が熟睡しているのを確    
かめて、従者の少女は手早く着替えを済ませて部屋から出る。    
 時計が無いので正確な時刻は分からなかったが、窓から見た    
景色からすると夜が明けたばかりのようだった。
 客室で黒羽と二人きりになってからは散々だった。
 理解できない言葉を聞かされたかと思うと唇を奪われ、その    
まま一方的に遊ばれてしまったからだった。
 夜になってからはロッテが主催する歓迎の宴に出席したもの    
の、朝まで続きそうだった上に気分もすぐれないままだったの    
で夜中過ぎに退席するしかなかった。
 料理も美味しかったし、ロッテ様も親切だったけどあんな事    
があるとね……。黒羽様は何を考えてるの?
 人気のない廊下を歩きながら、薫はそっと唇に自分の指を当    
てた。同性に初めての唇を奪われてしまった衝撃は、簡単に消    
えそうになかった。
 わたしはかつて黒羽様を殺そうとしたのにあそこまでされる    
なんて……。過去のことは関係ないってこと? もしかして、    
わたしがもう<人間>じゃないから……。
 最悪の可能性が頭をよぎって、薫は両腕で自分の体を抱きし    
めた。
 吸血鬼に血を与えられた人間は<闇の眷属>と呼ばれ、吸血    
鬼に近い存在となる。元に戻る方法は長年の研究でも確認され    
ていなかった。
 でも、わたしはいつか黒羽様を殺す。響をもう一度目覚めさ    
せる為に。響が無事なら、わたしは今のままでも構わない。響    
がああなるまで、必要とされてこなかったんだから……。
 ぐっと右手を握りしめ、自分の決意を確かめる。完全に黒羽    
の従者となっていたが、<本当の目的>まで忘れたわけではな    
かった。
 記憶を頼りに歩き続けている内に、正面玄関まで来た。一人    
で部屋まで戻れるか不安に思いながらも外に出る。
 重く大きな扉の外に広がっていたのは、旅行番組などでしか    
見たことがない広大な西洋庭園だった。
「うわ……。きれい……」
 月並みだったが、それしか言葉は出てこなかった。黒羽の屋    
敷にも庭園があって、よく外部の庭師が手入れしていたが、規    
模は比べものにならなかった。
 やっぱり異世界なんだ。なんていうか、空気が違う。外国の    
景色とも少し違うし……。
 まだ目覚めたばかりの陽の光に誘われるかのように、歩き出    
す。一人になるのも久しぶりのような気がした。
 にしても、広いわね。下手すると迷いそう……。
 方向音痴というわけではなかったが、自信が無くなりそうな    
程の広さだった。それでも、屋敷の周囲だけでも歩いてみよう    
と思いながら周囲の景色を眺めていた時だった。
 庭園の片隅に、金色の長い髪を束ねたメイドの姿を見つけて    
その方向へと足を運んだ。
「ナターシャさん、おはようございます」
「薫さん……。おはようございます」
 まるで薫が声をかけてくるのを予想していたかのように、メ    
イドの少女が振り向いた。その手には樹木を選定する鋏が握ら    
れていた。
「ナターシャさんは庭の手入れもするんですか?」
「はい。といっても時間のある時に少しずつしてるだけです。    
 大部分は庭師に任せています」
「そうよね……。この庭、とっても広いし」
 そこまで言って、薫はある種の違和感を覚えて小さく首をか    
しげた。そんなに重大なことではないような気がしたが……。    
「そういえば、ナターシャさんずっとロッテ様と黒羽様の給仕    
 をしてませんでしたか? わたしが寝る時も確か……」
「はい。夜明け前まで給仕してました」
「へ? もしかして、寝てない……?」
「わずかですが仮眠したので大丈夫です。私はあまり寝なくて    
 も動けますから」
 穏やかに笑って答える。その様子に、無理をしている様子は    
まったく感じられなかった。
「これが私の特技みたいなものです。最初はロッテ様にも随分    
 驚かれましたが、体質みたいなものです」
「そうなんだ……」
 薫はただ感心するしかなかった。同時に、自分の住んでいる    
のと違う世界に来たという実感が改めてこみ上げてくる。
「ところで……。ナターシャさん」
「呼び捨てにして下さい。私たちは従者同士なんですから仲間    
 のようなものです」
「うん……。じゃ、ナターシャ。貴方はロッテ様のどんなとこ    
 ろに惹かれたの?」
「全てです」
 園芸用の鋏で植え込みの手入れをしながら、ナターシャは即    
答した。青い瞳に迷いは感じられず、<従者>であることに引    
け目を感じている薫は内心たじろぐ。
「ロッテ様は吸血鬼ですがとても寛大なお方で、人間にすらも    
 好意的です。そんな一面に一目惚れしました」
「ここの世界の吸血鬼は人間に優しいの?」
「いいえ。ロッテ様が例外です。実際、リオン様は人間のこと    
 をなんとも思っていません」
「でもリオン様の世話もしてるんでしょう?」
「私がロッテ様に忠誠を尽くしていることを知っているからで    
 す。それ以上の理由はありません」
 現実と、淡々とした言葉の間に奇妙な溝があるような気がし    
て、薫は内心首を傾げた。どう見ても普通の人間であるナター    
シャが吸血鬼に仕えることができるのが不思議だった。
「薫も黒羽様にお仕えしているのでしょう? 別に不思議な話    
 ではないと思いますが」
 心の奥を見透かすように、ナターシャが問いかけてきた。
「黒羽様はロッテ様ほどではないにしろ鷹揚で寛大な御方。お    
 仕えしていて楽しくないですか?」
「えっと、ほら……わたしは過去が過去だし、まだ従者になっ    
 てあまりたってないし」
「過去は関係ありません。黒羽様もそう思っているはずです」    
 妙音に合わせて、植え込みの枝が切り落とされた。その音に    
薫は弾かれたように顔を上げる。
「黒羽様は本当に気に入った人間しか傍に置きません。従者な    
 らば尚更です。ですから気にすることはないと思います」
「うーん……。みんなからそう言われるのよね……」
「気持ちは分かります。でも、もっと素直になってみればいい    
 と思います」
 それが出来ないから苦労してるのに……。
 内心薫は溜息をついた。吸血鬼ハンターとしての心構えを完    
全に忘れてしまえばどれだけ楽なことか……。
 何も言えないでいる内に、気を遣ったナターシャが話題を変    
えてきた。すぐにそれに合わせた薫だったが、悩みは心の奥に    
重くのしかかったままだった。

 ミアキス家への滞在は、薫にとってみれば少しばかり退屈だ    
った。東京の屋敷にいる時には黒羽の命令やら雑事があるので    
それなりに忙しいのであるが、ここでは客人なのでどうしても    
暇を持て余してしまうからだった。
 そんなこともあって、ナターシャが来て欲しいと告げてきた    
時、薫は詳細を確かめないまま了解した。
 異世界に来て、数日が経った午後の事だった。
「本当にわたしだけでいいの? 黒羽様は外出中なのに」
「はい。ロッテ様からは薫だけ案内するように言われています    
 から」
「だったらいいんだけど……。黒羽様ったら、この世界を一人    
 で見て回りたいからって言って出かけちゃったのよ」
「無理もありません。戦闘になる可能性があるからだと思いま    
 す。黒羽様は気を遣われたのだと思います」
「戦闘……? だったらなんで?」
「この世界には力は強いのに理性の通じない怪物も多数存在し    
 ます。そのようなものたちを相手にするならば連れて行かな    
 いはずです」
「この世界の怪物は強いの?」
「ロッテ様や黒羽様と互角に近い怪物も他数います。逆に言え    
 ばそのような相手ならば、黒羽様も遠慮することなく力を出    
 すことができます」
 忠実なメイドの言葉に、薫は大きく肩を落とした。従者の自    
分を連れて行かない主人を恨んだのだが、それが見当違いであ    
ることに気づいたからだった。
 わたしじゃ力不足ってわけね。黒羽様に完敗したんだから。    
「ところで、ロッテ様はわたしに何の用があるの?」
 ナターシャに案内されて廊下を歩きながら、薫は思い出した    
ようにきいた。
「私も聞いていません。ただ、スノウ様のお部屋に案内するよ    
 うにとだけ言われています」
「スノウ様の部屋……?」
「はい。図書館と研究室を兼ねた部屋です。そこでスノウ様は    
 魔法の研究に取り組まれています」
 どうやらヒナは実践だけでなく研究も好みのようだった。だ    
から異世界の科学にも強い興味をもつのかと納得する。
 <万能の魔女>の部屋は、屋敷の東側にあった。部屋といっ    
ても別棟の三階建ての建物であり、外言だけを見ると白壁の図    
書館に思えるほどだった。
「わざわざ来てもらって悪いわね。ヒナが自分の部屋で話を聞    
 きたいっていうから」
 その中央、高いドーム型の天井を持つ円形の部屋で、屋敷の    
主とその親友は薫を待っていた。壁のほとんどは書架で占めら    
れ、床には所狭しと書物や不思議な形をした道具などが置かれ    
ていたので、一瞬ファンタジー世界の錬金術師の部屋に迷い込    
んだような気分になる。
「とにかく座りなさいよ。ナターシャ、いつものようにお茶は    
 いいわ。私が戻るまで待機してて」
「畏まりました」
 一礼して、従者でありメイドの少女は部屋から出て行った。    
 小さな音を残して扉が閉まると、ロッテは本題に入る。
「貴方に来てもらったのはちょっと理由があるのよ。貴方の今    
 後の運命が大きく揺れている。<星>がそう告げているの」    
「<星>?」
「ロッテは天球の星の動きから運命を読み取る能力を持つの。    
 私は<星を詠む>能力と呼んでいるけれど、部分的ながらも    
 未来すらも変える強力なものよ」
 いつものように淡々とした声で、ロッテの隣に座るヒナが解    
説する。当初は冷淡な性格にも見えたが、どうやら単に興味の    
ないことには口を挟まないだけのようだった。
「ヒナが言うほど大げさじゃないわ。でも、貴方を見ていると    
 どうしても気になって仕方ないの。そう遠くない内に貴方は    
 非常に大きな選択を迫られるようだから」
「どのようなものなんですか? 大きな選択って……」
「それが知りたいからここに来てもらったの。私の力とヒナの    
 魔法を合わせれば見えてくるはずだから」
「相変わらずお節介ね、ロッテも」
「別にいいでしょ。親友の従者なんだから。こんなに立派な研    
 究室を用意してあげたんだから少しは協力しなさいよ」
「部屋のことについては感謝してるわ。でも、それとこれは話    
 が別。今回は貸しにしておくから後で返して欲しいわね」
「ちゃんと返すわ。……いつになるか分からないけど」
「期待しない程度には待ってるわ」
 仲がいいのか悪いのか、第三者には分からないやりとりの末    
に、少女吸血鬼とその親友の間に同意が生まれたようだった。    
 ヒナが立ち上がって、薫について来るように促したからであ    
る。
「何をするのですか?」
「貴方は何もしなくていいわ。ただこの魔方陣の中央に立って    
 いてもらえればいいから」
「で、ヒナが魔力を送り込み私が<星>を詠む……と。略式だ    
 けど、それなりに未来が分かるはずよ」
 返す言葉が見つからなかったので薫は言葉に従って、石造り    
の床に描かれた魔法陣の中央に立った。途端に全身に強い魔力    
を感じ取り、声を上げそうになる。
 この魔力はスノウ様のものね……。こんなに強い魔力を持つ    
人間がいるなんて思わなかった。
 話によると、目の前で呪文の詠唱を始めたヒナはかつては人    
間だったものの、とある術を使うことによって純粋な魔法使い    
に生まれ変わったという。
 ロッテとは人間時代からの付き合いで、過去には色々な事が    
あったらしいと黒羽からは聞いていた。
「そろそろいいわね。何が分かるか楽しみね」
 白い吸血鬼は好奇心を抑えきれないようだった。無邪気な笑    
みを浮かべてつぶやくと、目を閉じて精神を一点に集中させ始    
めたからである。
 魔力で満たされた魔法陣の中央に立つ薫は、ただ見守るしか    
無い。
 魔法陣が光を放ち始めた。ヒナの魔力に別の新たな魔力……    
ロッテの魔力が加わったためだった。
 まったく異質な二つの魔力は反発し合いながら交じり合い、    
さらになる高みを目指し始める。
 まるで、巨大な龍がはるかなる空へと昇る瞬間を待ち続ける    
かのように。
 魔力を感じ取れる薫には息苦しく感じる程だったが、ロッテ    
とヒナのことを考えてぐっと堪える。
 ついに二つの魔力が一つに融合した時だった。
「星よ、導き給え。この者の運命を示せ!」
 ロッテの澄んだ声が室内に響き渡り、魔法陣に閉じ込められ    
ていた魔力が空……正確にはその奥に存在する星の世界へと放    
たれた。