第3話−2 異界の吸血鬼姉妹

 周囲を覆っていた白い霧が、少しずつ消えていった。
 東京の薄汚れた空気や雑然とした雰囲気が少しずつ背景に去    
っていくような感覚に軽く目眩を覚えている内に、まるで高原    
のような爽やかな空気が全身を包み込む。
 霧の奥から現れたのは、白い二本の塔が特徴的な洋館と、広    
大な西洋庭園だった。
 敷地の広さは黒羽の屋敷の二倍以上はあるだろうか。奥まで    
見通しても境界ははっきりしなかった。
「いつ来ても空気が澄んでるわね、ここは」
 よそ行きのワンピースに身を包んだ黒羽が、軽く帽子のつば    
を上げて辺りを見回した。
「東京とはまるで違うわね。ま、この世界はその名の通りファ    
 ンタジー世界だから当然かもしれないけど」
「こんな景色を見るのは……初めてです」
 メイド服ではなくお洒落な私服に身を包んだ薫が戸惑いなが    
ら答える。「今回は<客>として行くからおしゃれぐらいしな    
さい」と命令されて着替えたのだが、正直落ち着かなかった。    
「すぐに慣れるわ。さ、行くわよ」
「はい」
 吸血鬼とその従者である少女は並んで、手入れが行き届いた    
西洋庭園の中を塔のある屋敷の方に向かった。吹き抜ける風は    
少し冷たいものの心地良く、空は青く澄み渡っていた。
「普通の世界ですね……」
「この世界は私たちのいる世界の並行世界みたいなものだから    
 そんなに大きく変わらないわ。もちろん、人間も住んでるわ    
 よ。モンスターたちの餌食になりながらだけど」
「弱いんですね……」
「貴方だって私には勝てなかったじゃない。ついで言うと、ロ    
 ッテはある意味、私より手強いから勝負しようなんて思わな    
 いことね。妹のリオンちゃんも未熟だけど破壊力は半端じゃ    
 ないし」
「……別に勝負しようなんて思ってません」
 偽りない本音を薫は口にした。寺尾から聞いた話によると、    
かつて黒羽はロッテと激しい戦いを演じた末に敗北したことが    
あったという。
「しかし、黒羽様にしてみれば負けて勝ったようなものです。    
 その戦いをきっかけにロッテ様と深い友情で結ばれて同盟も    
 締結したのですから」
 寺尾の言葉に嘘があるとは思えなかったが、日本最強の吸血    
鬼を敗北に追い込んだロッテのことが少しだけ怖く思えるのも    
事実だった。
「今から言っておくけど、ロッテの前では礼儀正しくしなさい    
 よ。無礼を凄く嫌うんだから。無礼を働いたのが人間だと知    
 ったら本気で怒り出しかねないから」
「そ、そういう事は最初に言って下さい……」
「馬鹿ね、貴方は平気よ。いつものように振る舞ってればいい    
 だけなんだから。貴方はいつも大人しいじゃない」
「はあ……。そうでしょうか?」
「反論ひとつしないところが大人しいって言うのよ。私の従者    
 なのはいいけど、もう少し歯応えが欲しいわね」
 無茶苦茶言わないで下さい……。
 心の中だけで、薫はつぶやいた。これでも黒羽のメイドにな    
った直後は激しい敵愾心を抱いていたのだが、直接対決で敗北    
してからは逆らう気力を無くしていたからだった。
 完敗して従者にさせられて、それでも逆らえなんて……。今    
は無理よ、今は。力の差だって大きいんだから。
「……。ま、今はそれでもいいわ。ただ、私の従者はただ従順    
 なだけでは務まらないのよ。それだけは覚えておいて」
「わかってます」
 薫の返事を確かめて、黒羽は満足そうに頷いた。心の底から    
そう思っているとは思えなかったが、追及の手が緩んだことも    
あって従者の少女は内心安堵する。
「そう言えば、ロッテにも従者がいるから後で紹介してもらい    
 なさいよ。従者としての心構えを教えてもらうといいわ」
「はい」
「……。別に貴方に不満があるわけじゃないの」
 それだけ言って、黒羽は足早に玄関へと歩き始めた。長い漆    
黒の髪が大きく揺れるのを、薫は呆然として見ていた。
 どういう意味? わたしが未熟だから不満があるんじゃない    
の? まさか……。
 自分だけが行き過ぎたことに気づいたのか、黒羽が立ち止ま    
って睨みつけてきた。ようやく我に返った薫は、少し慌てて歩    
き始めたのだった。

 異世界の吸血鬼・ミアキス家の邸宅は想像していたよりもは    
るかに大きく立派だった。
 人の背丈を上回る高さの重厚な扉を開けて邸内に足を踏み入    
れた薫だったが、まずは玄関ホールの広さに目を奪われる。
 吹き抜けのホールを支える柱は大人三人がかりで囲んでも足    
りなそうな程の太さがあり、見上げた天井には外国の宮殿を思    
わせる荘厳な装飾が惜しみなく施されている。床には真紅の絨    
毯が敷かれ、足音はまったく響かない。二階に続く左右の階段    
は美しい螺旋を描き、芸術品に思えてくる程だった。
「いつ来ても大したものね。この屋敷も。全て完成させるまで    
 五十年はかかったそうよ」
 溜息をつきたげな様子で黒羽が言う。
「私の屋敷が貧相に見えてくるんじゃない? こんなのを見せ    
 られると」
「そんな事はありません。とても広くて何度も迷ったぐらいで    
 すから」
「ここで迷ったら遭難する危険があるわね。ま、そうならない    
 ように色々仕掛けはしてあると聞いてるけど。……それにし    
 ても、誰も出てこないわね。私たちが来たことぐらい……」    
「黒羽お姉さま〜!」
 不意に、幼く舌足らずな少女の声が耳に届いた。反射的に目    
を正面に戻すと、金色の髪を揺らしながら小さな人影が走り寄    
って来るのが見えた。
 一見すると小学校中学年ぐらいの可愛らしい女の子だった。    
白いベレー帽をちょこんと被り、白いケープに赤い吊りスカー    
トがよく似合っていたが、薫はその小さな身体から放たれる強    
烈な魔力に全身が冷たくなった。
 女の子は間違いなく吸血鬼だった。しかも、黒羽を上回る程    
の<力>を秘めた……。
 瞬時にそこまで分析しながらも従者として何をすればいいの    
か分からないでいる内に。
 吸血鬼の女の子は勢いをつけて黒羽に飛びついた。両腕を回    
し、胸元に顔を埋める。
「黒羽お姉さま、久しぶり! 会いたかった〜」
「リオンちゃんは相変わらず元気ね。いい子にしてた?」
「もちろん! ちゃんとお姉さまの言いつけを守ってたから」    
「だったら後でお土産をあげる。リオンちゃんが大好きな異世    
 界のお菓子よ」
「わーい! ありがとう! 黒羽お姉さま〜」
 まるで主人に甘える仔犬のような喜びようだった。その秘め    
られた魔力とのギャップが激し過ぎて、薫は言葉も出ない。
「ところでロッテお姉さまはどうしたの?」
「今来るよ。さっきまでスノウお姉さまと話をしてたから」
「出遅れててしまったみたいね。リオンったら黒羽のお土産が    
 そんなに気になるのね」
 まさに突然の出来事だった。すぐ目の前の空間が<歪んだ>    
かと思うと、白と紅のワンピースに身を包んだ少女が姿を現し    
た。その後ろには黒いマントを羽織った魔法使い風の小柄な少    
女、そして金髪を白いリボンで束ねたメイドを従えている。
 魔法、という言葉が心に浮かんだ薫だったが、驚きすぎても    
はや言葉も出てこない。
「久しぶりね、黒羽。心から歓迎するわ」
 白と紅のワンピース姿の少女……吸血鬼のミアキス・ロッテ    
は静かな微笑を浮かべて、薫の主人を歓迎した。
「ありがとう。しばらくゆっくりさせてもらうから」
「新しい従者を連れてきたのね。紹介してくれない?」
「もちろん。名前は藤間薫。かつて吸血鬼ハンターとして私を    
 狙ったけど、失敗して私の従者になったのよ」
 事実とはいえ、心に矢を突き立てられたような気がして薫は    
思わず俯いた。まだ吸血鬼ハンターとしての気持ちを失ったわ    
けではなかったが、従者になってからはそれを表に出すことは    
無くなっていた。
 こんな時でも言うのね。私の気持ちを知らずに……。
 伏せたままの視野に、白いブーツが映った。ぴっくりして顔    
を上げると、ロッテと目が合った。
「初めまして。アヴァロンファンタジーの吸血鬼ミアキス・ロ    
 ッテよ。貴方の事は黒羽から聞いてるわ」
「はい……?」
「そんな顔しないで。別に取って食おうってわけじゃないんだ    
 から。今後長い付き合いになりそうだからよろしくね」
 薫が再び呆然とするのにも構わず、ロッテは薫の手を取ると    
しっかりと握りしめた。黒羽に負けない程強烈な魔力が肌に突    
き刺さってきたが、悪意や敵意は微塵も感じられなかった。
「えっと、こちらも……よろしくお願いします」
「さすがに教育が行き届いてるわね。いい子じゃない」
「当然よ。この私が選んだんだから」
「それもそうね」
 一瞬だけ、ロッテは何かを言いたげな表情で薫を見た。しか    
し、すぐに目線を外すと自ら客人たちを案内し始めた。
 ……。いったい何? 今の顔。悪意は無かったけど……。
「荷物をお持ちします」
 少し低い少女の声が耳を打って、考え事をしていた薫は弾か    
れたようにその方向を見た。いつの間にか、金髪のメイドがす    
ぐ横に並んでいた。
「大丈夫です。半分は黒羽様の荷物ですし、わたしは従者です    
 から」
「申し遅れましたが私はロッテ様ならびにリオン様にお仕えす    
 るメイドのナターシャ・サハロフといいます。ロッテ様から    
 も指示がありましたので、荷物を預からせていただきます」    
 有無を言わせない口調だった。自分と同じような立場にある    
少女に荷物を預けることに抵抗があった薫だったが、黒羽の視    
線に気づくと言葉に従った。
「ここでは客なんだからもっと堂々としてなさいよ」
 多少眉を吊り上げて、主人の少女吸血鬼が注意する。
「済みません。どうしたらいいのか分からなくて……」
「ま、仕方ないわね。とにかくこの屋敷にいる時はナターシャ    
 に全てを任せていいわ。非常に優秀だから」
 メイドとしても、従者としてもひよっ子に過ぎない薫は尊敬    
の目でナターシャを見つめ直した。あまり表情を変えず、感情    
を表に出さないタイプに見えたが、すぐにある事実に気づく。    
「ナターシャさん。貴方はもしかして……普通の人間?」
「はい。よくお分かりですね」
「吸血鬼や、吸血鬼に血を与えられた人間なら特徴的な魔力を    
 放つので分かるんです」
「さすがは元吸血鬼ハンターね。一発でナターシャを人間と見    
 抜いた人間は貴方が初めてよ」
 くるりと先頭を歩くロッテが振り向いた。
「ますます興味が湧いてきたわね。黒羽、後でいいからこの子    
 と話をさせてもらえない?」
「いいけど……。相変わらずね」
「異世界の吸血鬼ハンターなら面白そうな話が聞けそうじゃな    
 い。楽しみね」
 黒羽とは対照的に、ロッテは楽しそうだった。無邪気と言っ    
てもいいその態度に、薫は今まで抱いてきた吸血鬼のイメージ    
が崩れそうになる。
 吸血鬼は自分たちより力の劣る人間を下等生物とか餌とかし    
か思ってないはずなのに。異世界の吸血鬼だから……?
「ロッテは元々人間に興味があるの」
 ほとんど気配を感じさせないまま、白と濃青のワンピースの    
上から黒いマントを羽織った少女魔法使いが横に並んだ。薫の    
問いかけるような視線に気づくと、素っ気ない口調で自己紹介    
する。
「私はヒナ・スノウ。ロッテの友人の魔法使いでこの屋敷に住    
 んでるわ」
「魔法使い……?」
「元は人間だったけど、今から……百年ぐらい前に魔法使いに    
 なったの。それからは色々な魔法の研究を続けてるわ。この    
 屋敷内で自由に会話が出来るのも私の魔法よ」
 淡々とした声で言われて、薫はようやく自分たちが異世界の    
者たちと不自由なく会話していることに気づいた。同時に、こ    
の世界に来る時も魔法の力を借りたことを思い出す。
「もしかして、黒羽様に手紙を出したのも貴方ですか?」
「そうよ。近い世界同士ならば難しいことではないわ」
「ヒナは支援が得意だから色々な魔法を使いこなすのよ。つい    
 た二つ名が<万能の魔女>。なかなかいないわよ。ここまで    
 優秀な魔法使いは」
 黒羽の褒め言葉にも、ヒナは表情を変えなかった。色白な肌    
に銀色の髪という外見に違わず、冷めた性格のようだった。
「でも珍しいわね。普段は自分から口を開くことなんかほとん    
 ど無いのに」
「他の世界のことに興味があるからよ。それ以上でも、それ以    
 下でもないわ」
「おみやげ持ってきたから後で進呈するわ。物理学の本、何冊    
 か買ってきたから」
 少女魔法使いの紺碧色の瞳に光が浮かんだ。同時に、ほんの    
一瞬ながらも口元が緩んだのを薫は見逃さなかった。
 そういうことだったのね。なんか……意外と親しみやすい人    
なのかも。
 そんな事を考えながら、広く豪華な廊下を歩き続けているの    
だった。