第2話―5 沙耶の警告
                                
 庭園を望む部屋でのディナーが終わる頃には、日もすっかり    
暮れた。
 窓から吹き込んでくる心地よい風を肌で感じながら、食後の    
お茶を運んできた薫だったが、黒羽が声をかけてきたので少し    
びっくりする。
「なんですか? 黒羽様」
「給仕はもういいから勝負の準備をしなさいよ。その間に舞台    
 を用意しておくから」
「あ、はい……。給仕はどうしますか?」
「後はいいわ。いざとなったら春奈を呼ぶから」
「わかりました。……あ、勝負の時ですけど着替えてもいいん    
 ですか?」
「当たり前じゃない。この前と同じ服装で勝負するのよ。貴方    
 にはあれが一番似合うんだから」
「はい」
 頷いたものの、薫の心は複雑だった。
 この前と同じってことは、吸血鬼ハンターの衣装を着ろって    
ことね。気に入ってるけど、今のわたしはハンターじゃないの    
に……。黒羽様の意地悪。
 思わず睨みつけたものの、当の本人は軽く受け流しただけだ    
った。絶対的な自信を感じ取って、薫は内心溜息をつきながら    
部屋を後にする。
 ……これからも、こうやって戦うことになのね。で、その時    
は吸血鬼ハンターとしての衣装を着ることになる、と……。
 巨大化して戦う事は楽しみだったが、吸血鬼の手の上で踊ら    
されていると思うと、気分はすぐれなかった。
 仕方ないわね。これが今のわたしなんだから。いつかきっと    
黒羽様を倒して、響を……目覚めさせてみせるから。
 なおも眠り続ける妹のことを思いながら、自分の部屋の前ま    
で来る。気持ちを切り替えて、扉を開けた直後だった。
「いい部屋に住んでるのね〜。貴方も」
 無邪気さの中に殺意を秘めた声が全身を撫でて、薫はその場    
に硬直した。底知れぬ恐怖と共に顔を上げると、薄暗闇の中に    
浮かぶ赤い瞳に心を射抜かれる。
 たおやかな令嬢が、地獄の悪魔のように見えた。
「沙耶……様? なぜ、ここに……」
「前の従者と同じような部屋なのね。まったく、黒羽も未練が    
 ましいわね。七瀬は自分で命を断ったのに」
「七瀬さんを知ってるのですか!?
 恐怖を一時的に忘れて、薫は問いかけた。
 自分の前に黒羽の従者だった少女の事が、知りたくてたまら    
なかった。
「貴方も同じ運命を辿らなければいいわね。黒羽はああ見えて    
 もデリケートだから」
「わたしも……同じ運命を辿る!? それはどういう意味なんで    
 す!? 何かご存知なのですか!」
「知らないわ。私はただの部外者に過ぎないんだから」
 紅瞳の少女吸血鬼は勝手に言葉を紡ぎ続けるだけだった。し    
かし、その外見からは想像もつかない程の殺意に、吸血鬼ハン    
ターだった少女は全身を強ばらせていた。
 まさか……沙耶様がこんな姿を見せるなんて。でも、黒羽様    
に次ぐ実力を持つはずだからおかしくない……?
「私が恐い?」
「い、いえ、そんなことはありません!」
「怖くないならば問題ね。日本で一番恐れられる吸血鬼はこの    
 私、五橋沙耶。覚えておいて」
「だったら黒羽様はどうなるのです!?
「黒羽は日本で一番強い吸血鬼だけど、怖さは中程度。という    
 より色々と甘いわ。貴方も気づいているんじゃないの?」
 囁くような声で問いかけられ、薫は言葉を失った。まさに沙    
耶の言うとおりだった。日本最強の少女吸血鬼の素顔は、傲慢    
で高飛車で誇り高い令嬢そのもので、ある意味では拍子抜けす    
る程だった。
 黒羽様は日本で一番古い吸血鬼・烏丸家の当主。その歴史は    
大和朝廷時代にまで遡るわ。プライドが高いのは当然なんだけ    
ど、普段はあまり怖くないのも事実だし……。
「だから教えてあげたかったのよ。本当に怖いのは誰なのか。    
 知らないのに黒羽の従者だなんて、片腹痛いわ」
「……お心遣いいただき、ありがとうございます」
「たまにはそういう口をきくのね〜。いかにも黒羽が好きそう    
 なタイプじゃない」
「私は黒羽様の従者ですから」
 言い切った瞬間、薫の胸の奥に痛みが走った。まだわずかに    
残っている吸血鬼ハンターとしての挟持が、自分の言葉を許さ    
なかった。
「色々複雑な事情がありそうね〜。というわけで、余興はこれ    
 で終わり」
 突然、何もしないのに部屋に明かりが灯った。紅瞳の魔力は    
霧散し、薫は一気に心が軽くなるのを感じる。
「早く着替えを済ませないと黒羽がうるさいわよ。貴方が戦う    
 のを楽しみにしてるんだから」
「承知しています。……ところで、さっきまで黒羽様と一緒に    
 いたのでは?」
「愚問ね。黒羽の相手は玲がしてるわ。それに人間より早く動    
 けるのは常識よ。覚えておいて」
 二度目の「覚えておいて」が薫の耳に届いた瞬間。沙耶の姿    
はその場から消えていた。目にも留まらぬ<速さ>で移動した    
ことに気づいて、薫は衝撃を受ける。
 そんな……。気配すらも感じられなかった。大人しそうに見    
えたのに実力は……黒羽様と互角?
 今まで得ていた沙耶に関する情報が間違いではないかという    
予感がしてきて、薫は俄に恐ろしくなった。自分の主人である    
黒羽が一番強いという確信が揺らいでいく。
 そんなのを相手に……わたしも響も戦ってたのね。勝てるわ    
けなんか……ないのに。
 それでも戦わなくてはならないのが、吸血鬼を狩る一族に生    
まれた姉妹の宿命だった。とはいえ……。
 響は昏睡したままだし、わたしなんか黒羽様の従者。これが    
運命だなんて思いたくない。きっと、変えてみせるから。
「薫さん、どうかしましたか?」
 不意に、背後から声をかけられて、メイドの少女は弾かれる    
ように振り向いた。開けられたまま扉から、寺尾が心配そうに    
顔を出していた。
「戻りが遅いので様子を見に来ました」
「済みません。ちょっと考え事をしてただけです……。すぐ行    
 きます」
「沙耶様に警告されたのではありませんか?」
 寺尾の言葉は、正確に薫の心を射抜いた。何も言えずにいる    
と、青年執事は軽く眼鏡を上げて続ける。
「沙耶様に心を許すのは大変危険です。あの方は黒羽様とは違    
 います」
「黒羽様と……違う? どういう意味で?」
「あの方は人間を酷く嫌っています。たとえ私たちのように血    
 を与えられたとしても同じです」
「でも従者の鳴海さんは……?」
「あの方だけが特別です」
 人の良さそうな玲の顔を思い浮かべて、薫は小さく首を振っ    
た。どういう意味で<特別>なのか、分かりそうになかった。    
「ところで寺尾さん、仕事は?」
「まだ途中です。急に黒羽様に呼ばれたので仕方ありません」    
「え? まさか黒羽様の命令だったの?」
「薫さんはそれだけ大事にされているということですよ」
「そうなんだ……」
 口ではそう言ったものの、必ずしも納得したわけではなかっ    
た。そこまで大事にされる自分に違和感があった。
 わたしは吸血鬼を狩ってきた一族の出身なのに……。どうし    
てみんな、わたしに期待するの? 寺尾さんじゃ駄目なの?
「私は仕事に戻ります。薫さんも従者としての務めを果たして    
 ください。……七瀬さんの為にも」
 驚いた薫が聞き返すよりも早く、寺尾は踵を返して立ち去っ    
ていった。その後ろ姿を見送りながら、メイドの少女はある可    
能性に思い至る。
 従者としての務め……。七瀬さんがわたしの前の従者だった    
ってことは、もしかして……。
 考えたくないことを考えてしまいそうな気がして、薫は頭を    
振った。それでも、七瀬という少女の存在は心の奥にこびりつ    
いて離れそうになかった。

 妹の響が作った吸血鬼ハンターとしての衣装に身を包んだ薫    
が居間に戻ってみると、二人の少女吸血鬼は賑やかに談笑して    
いた。その側には美少女……正確には少年だったが……メイド    
も付き添っており、知らない人間が見れば令嬢たちの優雅な談    
話にしか見えなかった。
「遅かったわね。待ちくたびれたわ」
 何があったのか全て知っているのにも関わらず、主人の黒羽    
はわざと眉をひそめてみせた。
「済みません。準備に手間取りました」
「ま、いいわ。ちゃんとその衣装を着てきたわね。あなたには    
 それが似合うんだから」
「そうねえ〜。地味な子かと思ってたけど、以外と存在感ある    
 のね。不思議不思議」
「その姿で吸血鬼ハンターとして戦ってたんだ。……凄いな」    
 相変わらず皮肉っぽい主人とは対照的に、玲は素直に感心し    
ていた。細い顎の下に手を当てて、感心したように頷く。
「黒羽様も言われてるけど、よく似合ってるよ。強そうだし」    
「わたしはそんなに強い方じゃないわ。実力は妹の響の方がず    
 っと上だったのよ」
「そうなんだ……。ごめん」
 触れてはいけない部分に触れたと思ったのか、玲はすぐに謝    
った。まるで捨てられた仔犬のような表情に、薫の方がかえっ    
て罪悪感を覚える。
「気にしなくてもいいわ。もう過去の話なんだから。今のわた    
 しは黒羽様の従者。そして、箱庭世界で戦う巨大剣士なんだ    
 から」
「で、今日は僕がその対戦相手を務める、と。巨大化して戦う    
 のは初めてだからちょっとワクワクするね。ビルとかも好き    
 に壊していいんだっけ?」
「もちろん。怪獣みたいに大暴れできるわよ。玲さんは男の子    
 だから迫力ありそう」
「まあね。好きにやらせてもらうよ」
「というわけで、そろそろ始めたいけど……いいかしら?」
 玲との会話に夢中になる薫に釘を刺すかのように、わずかに    
眉をひそめた黒羽が口を挟んだのはその時だった。
「あ、申し訳ありません。わたしは準備出来てます」
「僕の方もいつでも大丈夫です」
「もしかして……そのメイド服のまま戦うの?」
「これが僕の制服だからね。ちなみに武器はこれ。鍛錬で使っ    
 る特製の木刀を持ってきたんだ。当たってもそんなに痛くな    
 いか大丈夫」
「ちゃんと準備してきたのね。わたしも木刀だけど……手加減    
 できなかったらごめんね」
「平気平気。吸血鬼に血を与えられた人間は普通よりもはるか    
 に丈夫になるから」
 薫は何も言わずに頷いた。吸血鬼に血を与えられるというこ    
とは吸血鬼と同じような存在になるということ。すなわち、人    
間とは別の<身体>を手に入れることも意味していた。
「じゃ、そろそろ始めるわ。あなたたちを箱庭の中に入れるわ    
 よ。私たちはここで見学させてもらうから」
「箱庭の中の様子が見られるんですか?」
 木刀を構えた玲がきょとんとした顔で聞き直す。もっともな    
疑問だったが、<箱庭>を自在に操る少女吸血鬼は意味もなく    
ポーズを決めて答える。
「当たり前じゃないの。この箱の中では私が神なのよ。それぐ    
 らいできなくてどうするの」
「そうでした。済みません」
「だから薫は負けたのよ。そんな事も知らないから」
「言わないで下さい……」
 事あるごとに言われるので、薫は客の前にもかかわらずふて    
くされてみせた。こんな時、黒羽は底意地の悪い性格ではない    
かと疑いたくなる。
「ま、それはとにかく。ルールは簡単。箱庭の中に作った街を    
 全て破壊したらゲームセット。その時点で優位に立っていた    
 方が勝ちよ。どちらが多く破壊したかもポイントになるから    
 忘れないで欲しいわね」
「なんか凄いゲームね〜。私もやってみたいわ」
「沙耶は次でいいでしょう? 私が相手しなきゃいけないじゃ    
 ない。薫とかじゃ力不足だし」
「それもそうね。じゃ、玲。やるからには勝つのよ〜」
「承知しています」
 言い切って、少女のような少年は小さく頷いた。それを見て    
薫は主人の黒羽の方に目を向けたが、当の本人は箱庭の準備を    
するだけで声すらもかけようとしなかった。
 ……黒羽様のいけず。
 思わず心の中だけでつぶやいた時だった。
「さあ、ゲーム開始!」
 黒羽の声を合図として、薫と玲は箱庭の中に作られた世界へ    
と飛び込んでいった。