第2話―(2)七瀬という名の少女
                                
 遅い昼食の後、黒羽は<仕事>の打ち合わせがあると言い残    
して、寺尾と執務室にこもってしまった。
 日々の糧を稼ぐビジネスに関しては寺尾に任せているので、    
薫は自然と手空きになってしまう。
 そういえば燭台探しておかないと。大事な来客だし。
 従者というよりメイドとしての仕事を思い出し、薫は執務室    
の前を離れると東側の屋敷……東館に向かった。
 あ、倉庫の場所分からないじゃない。寺尾さんに……って黒    
羽様と一緒だったわね。
 自分の迂闊さを呪ったものの、すぐに気を取り直す。従者と    
して屋敷内のほとんどの部屋の鍵を預かっていることを思い出    
したからだった。
 そう言えば黒羽様も言っていたわね。この鍵の束を預けるの    
はわたししかいないって。あの寺尾さんも持ってない鍵がここ    
にある……?
 じゃらじゃらと鍵の束を揺らしながら、薫は少しだけ不思議    
な気分になっていた。
 寺尾さんが持ってるんだったら変じゃないのによりによって    
わたし? 信頼されてるってこと……?
 何か違うような気がしたが、それ以上考えるのは止めた。黒    
羽が何を考えているのか、未だに分からなかったからだった。    
「今まで入ったことがない部屋で鍵のかかってる部屋なんて限    
 られてるから……って、二つしかないじゃない」
 思った以上に知っている部屋が多いことに驚きながら、薫は    
まだ開けたことのない扉の前で立ち止まった。東館の一番東の    
突き当たり、薫の部屋とは正反対の場所だった。
 ここかしら? 倉庫にしては小さい気もするけど、ここに来    
たことは無いし。
 扉には何も書かれていないので本当に倉庫なのか自信は無か    
ったが、鍵束の鍵を片っ端から試してみる。時間がかかること    
を覚悟してたが、四本目の鍵が一致したので扉を開ける。
「えっ……?」
 部屋の中を見回した瞬間。
 薫は一瞬自分の部屋に戻ってしまったのかと思った。
 大きな窓に面した洒落た机と椅子、壁際のクローゼット、反    
対側にはベッド、そして洋風のテーブルと椅子のセット。全て    
自分の部屋にあるものと同じだった。
「どうなってるの……? わたしの部屋がここにも……ってそ    
 んなわけないわね」
 混乱する頭を小さく振ってすっきりさせると、ゆっくりと中    
に足を踏み入れる。壁の模様や絨毯も同じで、違うのは窓から    
の景色と壁にかけられた風景画、そして……。
「……これは」
 窓に面した机の上に写真立てを見つけて、薫は思わず手に取    
っていた。屋敷内の庭園を背景に写っているのは、いつもよう    
に自信に満ちた笑みを浮かべた黒羽と、メイド服姿の見知らぬ    
少女だった。
 余程親密な仲なのか、少女は黒羽の肩に手を回してたおやか    
な微笑を浮かべていた。
 ……誰? 前この屋敷にいたメイド? でも、黒羽様とこん    
なに仲がいいなんて……。
「ここは七瀬(ななせ)の部屋だったわ」
 突然、背後から黒羽の声が飛んできて、薫は驚きのあまり写    
真立てを落としそうになった。
 恐る恐る振り向くと、吸血鬼の少女はドアの隣の壁に背中を    
預けて腕組していた。その瞳に感情は無く、まるで精巧な人形    
のようだった。
「黒羽様……」
「七瀬は貴方の前の従者だったわ。あなた程強かったわけじゃ    
 ないけど誰よりも仕事熱心で、私に忠誠を誓ってたわ」
「血を与えたのなら忠実なのは当たり前じゃないですか?」
「違うわ。血を与える前から忠実だったの。私に……惚れてた    
 のよ」
 びっくりして、薫は写真に目を落とした。
 メイド服のよく似合う控えめな雰囲気の少女が黒羽に惚れて    
いた……。
 胸の奥でかすかに何かが疼いたような気がしたが、何なのか    
自分でもよく分からなかった。
「だから私も大好きだった。人間なんて所詮、私たち吸血鬼の    
 餌だけど、七瀬は別だったわ。従者にはしたけど、同じ吸血    
 鬼じゃないことが悔しくて仕方なかった」
「血を与えれば吸血鬼になるんじゃないんですか?」
「馬鹿。違うわよ。吸血鬼には近くなるけど、そのものじゃな    
 いわ。元吸血鬼ハンターのくせにそんな事も知らないの?」    
 憎まれ口を叩く声が少し震えていた。気のせいか、紅い瞳も    
潤んでいるようにも見えた。
「意思を完全に奪われるわけではないんですね……」
「当たり前じゃない。ただの人形に興味なんて無いわ。私が欲    
 しいのはごく普通に振る舞ってくれる人間なんだから」
「普段は餌としか思わないのに?」
「例外もいるって何度も言ってるじゃない。一番の例外が七瀬    
 だったのよ。でも……」
 不意に、黒羽が目を伏せた。自分から聞くのも躊躇われて薫    
は沈黙を守っていたが、吸血鬼の令嬢は顔を上げることなく淡    
々と言葉を続ける。
「七瀬はこの世にいないわ。自ら命を断ったから」
「えっ?」
「自殺したのよ。橋から身を投げて。とても寒い秋の夜のこと    
 だったわ……」
 声も出ないまま、薫は写真の中の少女を見つめていた。
 強烈な印象を残すタイプではなかったが、どこか人を引きつ    
ける不思議な魅力を秘めた少女だった。
 しかし、もうこの世には存在しない……。
「何か理由があったのですか?」
「理由? それがあったら苦労しないわ。遺書も何も無いから    
 真相は分からないままなのよ。自殺なんて間違ってもするわ    
 けなかったのに……」
「それでこの部屋を残していたのですね?」
「そうよ。まさかあなたが開けるなんて思わなかった。いい?    
 この部屋は勝手に開けたら駄目。七瀬が使ってたんだから」    
 黒羽は相変わらず薫と目を合わせようとはしなかった。
 かつて箱庭の中で戦った時からは想像もつかない程脆く崩れ    
そうなその姿に、従者の少女は胸が痛むのを感じる。
 ……七瀬さんって、とても大事にされてたのね。でも、そん    
な人の後釜になったわたしは……何なの?
 聞きたかったが、予想もしない答えが返ってくるのが怖くて    
疑問は言葉にならなかった。
「……長話をしたわね。とにかく、ここは開かずの間だから鍵    
 をかけて。倉庫の場所を教えるから」
「はい」
 頷いて、薫はかつての従者の部屋から出た。扉を閉める直前    
にもう一度内部を見回したが、形容しがたい空気が残っている    
ような気がしてならなかった。