第2話― () 吸血鬼と従者

 薫が黒羽に仕えるようになってから一ヶ月が過ぎた。
 最初は不慣れだったメイドとしての仕事も次第に楽しめるよ    
うになり、少しずつこの屋敷に馴染みつつあった。
 正確には馴染んでしまった、というべきね。まさかこうなる    
なんて思わなかったから……。
 五月の連休が終わって最初の土曜日。着慣れたメイド服に袖    
を通しながら、薫は溜息をついた。
 家にも知られてるわね、きっと。わたしが黒羽様に負けて従    
者にされてしまったって……。響も助けられなかったのにどん    
な顔をして家に戻ればいいっていうのよ。
 どうしても戻りたければ、主人である黒羽を殺すしか方法は    
無かったが、それが可能なのか判断はつかなかった。
 従者になって半月以上経つのに何も決められない……。それ    
だけ黒羽様には隙が無いということだけど、私は従者でもある    
んだから……。
 自分の立場の複雑さに、再び溜息が漏れる。無意識の内に手    
を動かしていたので、着替えは終わっていたが、部屋から出る    
気にはなれなかった。
 今日は土曜日。予定は特にないわね。だから黒羽様も「ゆっ    
くり出てくればいいわ」なんて言ってたけど……。やっぱり気    
が進まない。
 椅子に座ると、机に思い切り突っ伏す。他人には見られたく    
ない姿だったが、悩んでいる時のポーズだった。
 あーもう。どうしたらいいの……。まさか一生このままなん    
て嫌だし、なんとかして黒羽様を倒す方法を探さないと。でも    
やっぱり隙なんて無いし……。
 ドアがノックされた。
 主人の黒羽ならノック無しに入ってくることを思い出し、我    
に返った薫は慌てて駆け寄ってドアを開ける。
「寺尾さん……?」
「お茶が入りましたよ。一杯どうですか?」
 そこに立っていたのは、この屋敷の執事である寺尾だった。    
 いつものようにダークスーツに身を包み、手には紅茶のポッ    
トやカップの載ったトレイを持っていた。
「あ、あのわたしは仕事がありますから……」
「今日は土曜日ですから好きにしても問題ありません。それに    
 黒羽様はまだ寝ていらつしゃいます」
「へ? 寝てるって……。昨日遅かったの?」
「オンラインゲームに熱中なされていたようです」
 寺尾の言葉を理解するまで、数秒かかった。理解した途端、    
心の底から呆れ返ってしまった。
「黒羽様っていったい……」
「普通のお嬢様ですよ。その名を知られた吸血鬼であることを    
 除けば。ああ見えてもゲームとかはお好きですから」
「わたしには何も言わないのに」
「恥ずかしいのでしょう。いずれバレるというのに困ったもの    
 です」
 そう言って、寺尾は大げさに溜め息をついてみせたが、薫は    
目の前の執事が黒羽の<秘密>を漏らしたことに気付いた。
「寺尾さん、今わざと言いませんでしたか?」
「わざとですよ。黒羽様はもっと薫さんに秘密を打ち明けるべ    
 きだと思いますので」
「そういうものなの……?」
「何度も言いますが、黒羽様を支えられるのは薫さんしかいま    
 せん。その為ならば、私も一肌脱がせてもらいます」
「だからこうやってお茶を持ってくるのね」
「そういうことです。さあ、どうぞ。淹れたてですよ」
 破顔して、寺尾は紅茶のカップをテーブルに置いた。
 しばらく困惑していた薫だったが、このまま冷ましてしまう    
のは勿体ないような気がしてカップに手を伸ばす。
「……美味しい。寺尾さんって本当になんでも出来るのね」
「黒羽様の為です。黒羽様にお仕えするようになってから紅茶    
 の淹れ方も覚えました」
「寺尾さんはここに来る前は、とある大企業で働いてたんだっ    
 け? 幹部候補だったって聞いたけど」
「ええ。黒羽様に認められてここの執事となりました」
「血を分け与えられて、ね」
「元は吸血ハンターだった薫さんの気持ちは分かりますが、私    
 自身は感謝しています。ここでならば自分の力を全て発揮で    
 きますからね」
 寺尾の言葉に嘘偽りがあるとは思えなかった。
 これまで、屋敷内で働く他の人たちと似たようなやりとりを    
してきたものの、いずれも同じ回答だったからだった。
 わたしだけね。複雑な立場にあるのは。でも仕方ない。わた    
しはまだ吸血ハンターなんだから。
「薫さんが慣れることをみんな期待しています。黒羽様の為に    
 もなりますからね」
「寺尾さんじゃ駄目なの? わたしなんかよりずっとしっかり    
 してるし大人なのに」
「私は執事であって従者ではありません。従者は薫さん、貴方    
 なのです。そのことを忘れないで下さい」
「従者って、そんなに大事なの?」
「いずれ分かります。とにかく、黒羽様にとって一番大事な人    
 であることは間違いありません」
 寺尾の言葉は真剣そのものだったが、当の本人は内心首をか    
しげるだけだった。
 それ程の存在にしては、黒羽からの扱いはぞんざいのような    
気がしてならなかったからだった。
「黒羽様は思っていることを態度に示すような方ではありませ    
 ん。素っ気なくても薫さんのことは大事に思っています」
 その点を正直に話すと、寺尾は真剣な表情で答えた。
「断言するのね」
「ええ。私にははっきりと分かりますからね。もう一杯、いか    
 がですか?」
「……お願い」
 あまりに美味しい紅茶だったので、薫は躊躇わずにカップを    
差し出した。微笑しながら、寺尾はそこに紅茶を注ぐ。
 イケメン執事に世話されるメイドっていうのも変なの。でも    
寺尾さんは気にしてないし……。
「もしかして……。みんなわたしに親切なのはわたしが従者だ    
 から? 従者になるまではあんなに素っ気なかったのに」
「その通りです。従者になるまで冷たく振る舞ったことは謝り    
 ます。あの時は貴方が従者になるのか確信が持てなかったの    
 でどう接していいのか分からなかったのです」
「やっぱり……」
 そんな事だと思った、と言いたげに薫は頷いた。
 従者になった途端、屋敷内で働く人たちの態度が百八十度変    
わったのでまさかと思っていたのだった。
「今の薫さんは私たちの<仲間>です。仲間ならば共に助け合    
 うことも出来ます。それを忘れないで下さい」
「うん……」
 どう返事していいのか分からず、薫はとりあえず頷いて誤魔    
化した。それでも寺尾は、「何かあったらなんでも相談に乗り    
ますよ」と言って微笑するのだった。

 黒羽が目を覚ましたのは、昼過ぎになってからだった。
 隣室に控えていた薫は、主人に呼ばれて寝室に入る。
「昨夜はお楽しみでしたね」
 大きなベッドに半身を起こした黒羽が半分寝ぼけていること    
に気付いて、薫はここぞとばかりに皮肉を言った。
「何がお楽しみよ。忙しかったからずっと起きてたのに。あん    
 たはすぐに寝たじゃない」
「黒羽様が下がっていいとおっしゃったからです。余程忙しか    
 ったのですね」
「忙しかったわよ。ったく、私にも都合があるのにあの連中と    
 きたら……。もしオフ会で会ったら文句言ってやるから」
「仲間は大事にしないといけませんからね」
「そういうこと。誰も私の正体なんて知らないんだから……」    
 ベットから出ようとした黒羽の動作がぴたりと止まった。充    
血して一段と赤くなった目を細めて薫を睨みつける。
「……どこまで知ってるの?」
「さて、なんのことでしょうか? それより着替えの準備がで    
 きています」
「下手な嘘をつくんじゃないの。寺尾から聞いたんでしょう?    
 有能なのにお節介なんだから。吸血鬼がオンラインゲームに    
 ハマって悪い?」
「いいえ。全然。わたしは興味ないですけど」
「だったら興味を持ちなさいよ、馬鹿」
 本人は威厳を込めて言ったつもりかもしれなかったが、薫に    
は照れ隠しにしか見えなかった。
 戦った時はあんなに怖かったのに、これじゃただの我侭お嬢    
様じゃない……。どっちが本当の顔なの?
「黒羽様、今日の予定は?」
 メイドらしく主人の着替えを手伝いながら、薫はきいた。
「夕方から来客があるからその準備をして。詳しくは寺尾から    
 聞いて」
「来客? どなたが来るんですか?」
「吸血鬼ハンターなら名前ぐらいは知ってるでしょう? 五橋    
 沙耶(いつはし・さや)よ」
「えっ……?」
 思いがけない場所で思いがけない名前を聞いたような気がし    
て、薫は手を止めた。
 五橋沙耶は黒羽に次ぐ実力を持つと言われる少女吸血鬼だっ    
た。しかし、表向きはとにかく裏の動きは黒羽以上に分かりづ    
らいことでも有名だった。
 しかし、これまでに人間に対して吸血以上の危害を加える事    
件を起こした事は無く、薫の家では「要注意」程度にしか思わ    
れていなかった。
「まさか知らないの?」
「いえ。名前ぐらいは知ってます。でも、どんな吸血鬼かと言    
 われるとよく知りません」
「それもそうよね。大人しい性格だから。でもたまに遊びに来    
 るから覚えておきなさい」
「分かりました」
 返事はしたものの、薫の心の中では疑問が渦巻いていた。
 まさか、日本で二番目ぐらいの実力を誇る吸血鬼が訪問して    
くるとは思わなかったからだった。
 吸血鬼同士は仲が悪いって聞いてたのに……。でも、沙耶が    
例外かもしれないし。
 そんな事を考えている内に、黒羽は着替えを終えた。漆黒の    
長い髪をふわりと翻すと、目線を合わせること無く命じる。
「沙耶が来るなら特製の燭台をテーブルに飾りたいわね。後で    
 出しておいて」
「どこにあるのですか?」
「東館の倉庫……のはずよ。分からなかったら寺尾に聞いて」    
「承知しました」
 主人の命令に、薫は反射的に頭を下げた。
 わずかに吸血鬼ハンターとしての心を残しているとはいえ、    
血を分け与えられた身である以上、黒羽には忠誠を誓うのが当    
たり前になっているのだった。