第1話―(3) 月下の襲撃

 屋敷に戻ったのは、昼前のことだった。
 そのままいつものように先輩メイドの春奈が作った美味な昼    
食を摂り、午後は黒羽つきのメイドとしての仕事をこなした薫    
だったが、主人の様子に変化はなかった。
 分かんないわね……。何も。
 夕方になって、一度下がっていいと黒羽に言われて、薫は別    
棟の自室に戻ってきた。メイド服のまま窓に面した大きな机に    
向かい、そのまま両手を広げて突っ伏す。子供の頃から、困り    
果てた時によくするポーズだった。
 そもそも隙がどこにあるのか分からないんじゃどうにもなら    
ないじゃない。今日みたいに外出の時だって付き添わされちゃ    
うんだから。かといって断るわけにはいかないし……。
 この屋敷のメイドとなって潜入するのは、苦肉の策もいいと    
ころだった。正体がばれた時には逃げ道が無くなるからだった    
が、黒羽に接近する方法はこれしかなかった。
 響はどうやって黒羽に近づいたのかしら? 同じ方法を使っ    
たはずだけど、分かるわけないわね……。
 昏睡状態のままの妹のことを思うと、薫の胸は痛んだ。なん    
としても助けたかったが、黒羽を殺すことができるのか……自    
信は無かった。
 私に出来るの? 今まで大した相手にしか戦ったことがない    
のに黒羽に挑むなんて。私なんか大したことないのに……。
 改めて、優秀な妹に全てを任せてきたことが悔やまれる。せ    
めて自分がもう少し積極的だったら……。
 それでも駄目ね。わたしの力だと足を引っ張るだけ。だから    
響も言ってたのね。<お姉ちゃんは自分の進みたい道に進めば    
いい。無理しなくてもいいから>って。
 大好きな妹の気配りが改めて身にしみて、薫は突っ伏したま    
まま泣きたくなった。どうして自分ではなく響が犠牲になって    
しまったのだろうか。
 思考の迷路に入り込んで、もがき続けていた時だった。
 部屋の扉がノックされた。
 慌てて跳ね起き、頬の涙を拭った薫だったが、すぐに疑問を    
抱く。主人の黒羽はノック無しに入ってくるはずだった。
「誰なの……?」
 この屋敷内にいる人間とは誰とも打ち解けていないことを思    
い出しながら扉を開く。
 そこにいたのは執事の寺尾だった。
「寺尾さん……?」
「お嬢様より伝言です。今日は仕事を切り上げてもいいとのこ    
 とです」
「え? 夕食もまだなのに、ですか?」
「はい。お嬢様は夕食後、ひとりで月光浴を楽しまれるそうで    
 す。今日は満月ですので」
「そういえばそうだったわね……。寺尾さんはそれを知らせに    
 来てくれたんですか?」
「お嬢様からの命令ですから」
 薫の問いかけに、執事の青年は淡々と答えた。黒羽に血を分    
けられて従僕となっている為、その命令には絶対従うことを思    
い出し、薫は内心溜め息をつく。
 人間を<ただの餌>と思っているくせに、役に立つ人間は自    
分の手駒にするその身勝手さが嫌でたまらなかった。
「ありがとう。ゆっくりさせてもらうから」
 薫の返事を確かめると、寺尾は踵を返して本邸の方へと戻っ    
ていった。いつもならば、その後姿を名残惜しげに見送るとこ    
ろだったが、メイドの少女はすぐに扉を閉める。
 月光浴……。まったく、吸血鬼らしい趣味ね。いつものテラ    
スでするのね。ま、こっちは付き合いたくなんかないけど。ど    
うせ……。
 机に戻ろうとして、足が止まった。
 寺尾は言っていた。黒羽はひとりで月光浴を楽しむと。
 ……絶好の機会じゃないの? いつもならわたしか寺尾さん    
が側にいるけど、月光浴の時はひとり。こんなチャンス滅多に    
無いんじゃ……。
 一気に鼓動が高まり、頬が紅潮する。長期戦も覚悟の上で隙    
を見つけるつもりだったが、機会は意外と早く訪れたような気    
がしてならなかった。
 今夜を逃したらまた来月になるわね。しかも、晴れるとは限    
らないし、それまでにわたしの正体がバレる可能性だってある    
んだから早い方がいいかも。善は急げとも言うし。
 全力を尽くして自分の性急な行動を正当化する。当然の事な    
がら、薫自身はその意味に気づいていない。
 月光浴をするならばいつものテラスしかありえないはず。あ    
そこなら屋根から襲えるわね。例のアイテムも使えるし、不意    
打ちすればきっと……。
 高まる心に合わせて、全てがうまくいくような高揚感が薫を    
包み込んでいく。
 決着をつけるならば今夜しかない。そう思いつめているのだ    
った。

 南東の空にかかる満月が、明るく周囲を照らし出していた。    
 下調べしておいた通りに本邸の屋根に登った薫だったが、わ    
ずかに吹く夜風に目を細める。
 ここまでは大丈夫ね。幾ら秘術のお陰で気配も音も完全に消    
えてるといっても相手は黒羽。油断はできない。
 愛用の刀……吸血鬼を殺すことができる唯一の武器を握る手    
に力を込めて、薫は自分を戒めた。
 とにかく、後はこのままテラスの上まで行くだけ。そこに黒    
羽はいる。そうしたら……一気に討ち取るだけ。
 遠い昔、ご先祖様のひとりが編み出した秘術のお陰で気配な    
どは完全に消えている以上、薫にも勝ち目はあるはずだった。    
 きっと勝てるはず。響だって力を貸してくれるんだから。こ    
の衣装だって響が作ってくれたものだし。
 薫が身にまとっている吸血鬼ハンター用の衣装は、響の手製    
だった。白を基調としながらもやけに派手なもので、初めて見    
た時は何かのコスプレかと思った程だった。
「この服は見かけは派手だけど、ちゃんと実用的なのよ。響が    
 念入りに力を込めておいたから」
 絶句した薫に、爛漫な性格の妹は得意げな表情を崩さずに説    
明してくれたものだった。
「お姉ちゃんの身体能力を二割……ううん、三割は高めてくれ    
 るはずなんだから。これさえ着てれば響とだって互角に勝負    
 できるよ、きっと」
「そんなに凄いの? まあ、響は術も得意だから当然ね」
「そういうこと。着てみて。似合うと思うから」
「色使いも装飾も派手気味だけど、ちゃんと意味はあるのね」    
「あ、それは全部響の趣味。変身ヒロインみたいで格好いいの    
 を作りたかったの」
 無邪気に言い切られて、思わず肩を落としてしまったのも今    
となっては色あせた思い出でしかなかった。当の響は深い眠り    
についたまま、目を覚まさないでいるのだから……。
 心に浮かび上がってきた諸々の感情を無理やり押し殺して、    
薫はテラスの方へと向かった。春の夜の穏やかな風が、束ねた    
だけの髪を揺らしていたが、それすらも気にならなかった。
 視野に見覚えのある白いテラスが入ってきた。建物内の明か    
りは消えていたが、降り注ぐ満月の光に浮かぶその姿は幻想的    
だったが、その中央で黒羽は悠然と椅子に腰掛けて庭を眺めて    
いた。
 ついてるわね。ちょうど屋根に背中を向けてるじゃない。わ    
たしの気配と音は消えてるから背後から襲えば気づかれないで    
済むわ。
 テラスにおける黒羽の位置関係が掴めなかったことに一抹の    
不安を感じていた薫だったが、内心安堵した。ここまで来たら    
引き返すという選択肢は存在しなかった。
 いよいよ決着をつける時。黒羽を討ち取り、響を目覚めさせ    
る。日本最強の吸血鬼でもこの刀には勝てないんだから!
 ゆっくりとテラスの真上まで近づき、足を止める。腰近くま    
での黒髪に覆われた黒羽の後ろ姿が、ほんの一飛びで届く位置    
に見えた。
 訓練で何百回もやったように姿勢を低くした状態で、刀に手    
をかけて構える。居合い斬りは吸血鬼ハンターの基本的な技で    
あり究極の技でもある。当然のことながら薫も妹に負けない程    
度の技量を身につけていた。
 ……。覚悟! 烏丸黒羽!
 心の中で叫ぶのと同時に。
 薫はブーツに包まれた足で屋根を蹴った。空中で黒羽の姿を    
捉えながら、神速の速さで刀を抜き払う。
 音も気配もなく近づいてきた襲撃者に、黒羽はまったく気づ    
いていない。
 薫の白刃が黒羽の首筋を薙ぎ払おうとした、その瞬間。
 吸血鬼の少女の側のテーブルに置かれていた古く大きな木箱    
がわずかに光を放った。
 しかし、それに気づくことなく、薫の姿は襲撃しようとした    
相手と共に何処へと消える。
 後に残ったのは、黒羽が座っていた椅子とテーブル、そして    
古くて大きな木箱だけだった。

 心地よい風が頬にあたって、薫はゆっくりと目を開けた。
 視野に入ってきたのは見慣れた山並みと青空、そして自分の    
住む街……鶴野の駅前にある商業ビル街だった。
 但し、それらはまるで模型のように小さかったが。
「えっ……?」
 目に映る光景を頭の中で理解した瞬間、薫は驚きのあまり口    
元に手を当てた。慌てて足元を確かめると、ブーツに包まれた    
巨大な足は駅前の道路を思い切り陥没させており、その周囲に    
は車がぎっしりと停まっていた。
 幸い、人の気配は感じられなかったが、その場から動くこと    
すら出来そうになかった。
 どうなってるの……。ここは鶴野よね? でも、こんなに大    
きくなってるなんて。夢でも見てるの?
 何が何だかまったく分からない。そもそも、黒羽を狙って屋    
根から飛び降りたはずなのにこんな場所にいるのも不自然極ま    
りなかった。
 もしかして幻術とか……。高度な術なら現実と見分けがつか    
ないって話は聞いたことがあるけど、黒羽が使えるという情報    
は聞いてないし……。
 そっと手を伸ばし、道路に面するビルの屋上にある看板に触    
れてみる。幻とはとても思えないほどの質感があって、うっか    
りすると壊してしまいそうだった。
 どうやったら抜けられるの? でもこんな状態になったら歩    
けるわけないし、まさか壊すわけには……。
 「壊す」という単語が心に浮かんだ瞬間、薫は奇妙な衝動が    
全身を貫くのを感じた。子供の頃から怪獣映画を見るのは好き    
だったが、特に興奮したのは怪獣が好き勝手に暴れて都市を破    
壊するシーンだった。もし、自分が同じ立場になったとしたら    
きっと……。
「何を戸惑ってるのかしら?」
 いきなり。背後から聞き慣れた<主人>の声が飛んできて、    
薫は心臓が止まりそうになる程驚いた。
 慌てて振り向くと、自分と同じぐらいに巨大化した黒羽が腕    
を組み、悠然と立っていた。口元には笑みが浮かんでいたが、    
その瞳には冷ややかな感情しか浮かんでいなかった。
「く、黒羽……様……」
「私を不意打しておいて<様>付するなんていい度胸ね。貴方    
 の正体はとっくにバレてるのよ。吸血鬼ハンター・藤間薫」    
「えっ……」
 突然背後から弾を打ち込まれたような気がして、薫はその場    
に崩れ落ちそうになった。あれ程慎重に身分を隠して潜入した    
というのに……。
「まさか私が気づかないと思ってたのかしら? それこそ最初    
 に屋敷に来た時から気付いたのに。おめでた過ぎて笑う気に    
 もなれないわ。たかが<餌>のくせに」
「人間を<餌>呼ばわりするのは止めて! 人間だってちゃん    
 と生きてるのに……」
「だったら貴方は養豚場の豚が言葉を話したら言うことを聞く    
 のね。所詮、人間は養豚場の豚。私たち吸血鬼の食料でしか    
 ないわ」
「そんなことだから……あんな酷いことも出来るのね!」
「何のことかしら? 多すぎていちいち覚えてられないわ」
 上空の風に長い黒髪をなびかせながら、黒羽は口元だけ微笑    
した。その瞳には感情すらも浮かんでおらず、ただ自分の同じ    
形をした<食料>を見つめるだけだった。
「許せない……。絶対に、許せない。たとえ命と引き換えにな    
 ろうとお前を倒す!」
「出来るのかしら? 私は相手してあげていいのだけど、この    
 街がどうなってもいいのね」
 腰にさした刀を抜き払おうとした薫だったが、黒羽の事実だ    
けを告げる言葉に、改めて辺りを見回した。身長約五十メート    
ルにまで巨大化した少女は駅前の大通りを陥没させながら立っ    
ており、一歩を踏み出すだけで道路上の車などを踏み潰す程だ    
った。そんな状況で戦ったら……。
「ここはどこなの? 本当に鶴野なの? そもそも屋敷にいた    
 はずなのにどうしてこんな所に……」
「一つだけヒントをあげるわ。昼間、私は言ったわね。私の趣    
 味の一つは箱庭作りだって。ここはその箱庭の内部なのよ」    
「え……」
「私の特殊能力はまだ言ってなかったわね。<箱庭を自在に操    
 る程度の能力>。こうやって箱庭の中に実在の街を再現した    
 り、その中に入ったりするのも自由なのよ」
「だったらこの町並みは作り物なのね。ならば……」
 突然、黒羽が口元に手を当てて笑った。青い空全てに響き渡    
るかのような笑い声に、薫は頭に血が上る。
「どうして人間はどこまでもおめでたいのかしら? 私は一言    
 も作り物だなんて言ってないじゃない。ついさっきまで私の    
 能力を知らなかったのにどうしてこの街は作り物だと断言で    
 きるの?」
「どういう意味? 偉そうにしてるけど全部幻なんでしょう?    
 何をしても実際の街に影響なんか……」
「だったらその身体で確かめた方がいいわね。さあ、楽しい勝    
 負が始まるわよ!」
 黒羽のこの言葉を合図として。
 <箱庭世界>を舞台にした二人の巨大少女たちの激しい戦い    
が始まった。