第1話―(2) 黒羽の優雅な外出

 表向きは名門・烏丸家の当主である黒羽は、外出する時は運    
転手付きの車で邸宅を出る。
 この日も寺尾の運転する黒塗りの国産高級車の後部座席に悠    
然と座っていたが、今までと違うのはその隣に新人メイドの薫    
が座っていた点だった。
「タクシー以外で運転手付きの車は初めて?」
 薫の横顔に緊張に満ちていることに気づいたのか、黒羽がか    
らかうような口調できていきた。
「もちろんです。普通は……電車で移動してましたから」
「電車なんてほとんど乗らないわね。たいていは寺尾の運転す    
 る車か飛行機だから。楽でいいじゃない」
「そういうものでしょうか?」
「あなたは私の側に仕えるんだからこれぐらい慣れてもらわな    
 いと困るわ」
「どういう意味です?」
「言葉通りの意味よ」
 素っ気ない言葉だったが、なぜか黒羽は楽しそうだった。ま    
るで新しい人形を手に入れた少女のような無邪気を漂わせてい    
たが、緊張していた薫はそこまで気づかなかった。
「ところで、今日はどこに行くのですか?」
 派手さはないとはいえ、高級感漂うドレスに身を包んだ薫が    
控えめに口を開く。
「銀座のデパートに行ってからちょっとした店に寄るわ。買い    
 物があるの」
「買い物?」
「普段なら外商を呼べば済む話だけど、それじゃ味気ないから    
 わざわざ出向いてあげるの。たまには楽しいのよね」
「はあ」
 薫の口をついたのは、溜め息とも相槌ともつかぬ奇妙な声だ    
けだった。あまりの反応の悪さに、黒羽は眉をつり上げる。
「なにその間の抜けた返事は? 私がデパートにわざわざ行く    
 のはとても珍しいのよ」
「え? あ、はい……。わかります」
「全然分かってないじゃない。そんな事では私のメイドなんて    
 務まらないわ」
「黒羽様、少し落ち着かれてはどうです?」
 ステアリングを握る寺尾が静かに諫める。突然だったので薫    
は少しだけ驚いたが、バックミラーに映る表情に変化は無かっ    
た。
「……そうね。薫は新人だったわね」
「ところで、どこでお降りなられますか?」
「いつも通りでいいわ。少し歩きたいから」
「承知しました」
 寺尾の運転は慎重そのものだった。まだ二十代後半ぐらいに    
しか見えなかったが、いつも冷静沈着で有能な青年に、薫は浅    
からぬ興味を抱いていた。
 完全に黒羽様に忠誠を誓っているから……闇の眷属にされて    
るのは間違いないわね。もっとも、邸内の人間は全員そうみた    
いだけど。
 吸血鬼に血を吸われた人間が吸血鬼になるとは限らない。大    
量に血を奪われれば新たな生命を得るよりも早く死ぬことにな    
るし、寺尾のように血を吸わない吸血鬼となって主人に絶対の    
忠誠を誓う従僕になることもある。
 黒羽は気に入った人間についてはその血を吸い、闇の眷属と    
いう名の従僕にしているようだった。
 普段は人間を<餌>程度にしか思ってないのに。その身勝手    
さのせいでどれだけの犠牲が出たと思ってるの?
 ほとんど振動を感じないまま走っていた車が停まった。信号    
待ちらしいことに気づいて窓から外を見た薫だったが、すぐに    
表情が凍りつく。
 視野に入ってきたのは、日本の犯罪史上最悪の事件として世    
界中に報道された<鮮血の夜明け>事件の舞台となったファッ    
ションビルだった。
「どうかしたの? 急に黙りこんだりして」
 衝撃のあまり、呼吸すら忘れたままビルを見据えていると、    
黒羽の声が背後から飛んできた。
「……な、なんでもありません」
「意外と怖がりなのね。事件があったのは半年前なのに。でも    
 未だに閉鎖されてるから無理ないかしら?」
「そ、そういう問題ではありません! あそこでは数百人もの    
 人が……殺されたんです! 謎の殺人鬼に!」
「まだ犯人は捕まってなかったわね。まったく、警察は何をし    
 てるのかしらね」
 信号が変わって、ゆっくりと黒塗りの高級車は動き始めた。    
 惨劇の舞台となったビルが次第に遠ざかっていったが、薫の    
心には純粋な怒りが燃え上がっていた。
 何を……何を言ってるの、この吸血鬼は? 犯人は捕まって    
ない? 当たり前じゃない。犯人はこの国で最凶の吸血鬼・烏    
丸黒羽なんだから……!
 この事実を知っているのは代々吸血鬼を狩ってきた藤間家の    
関係者と政府上層部のごく一部だけだった。
 表向きは犯人不明の猟奇事件として処理され、密命を受けた    
響が<真犯人>の黒羽に挑んだのだが、その結果が今の薫の立    
場だった。
 こんな事件を起こしておいて平然としてるなんて……。黒羽    
は何を考えてるの? やっぱり人間をただの餌としか……。
「黒羽様、今日は何をお買いになるのですか?」
 恭しい口調で、寺尾が口を開いた。突然、非日常から日常に    
放り出されたような気になって、薫は目眩を感じる。
「部屋に飾る絵を新しくしたいのよ。外商に頼んだら大事にな    
 りそうだし、自分から出向くことにしたわ」
「それがいいと思います」
「にしても……。お付きがこんな状態になるなんて思わなかっ    
 たわ。大丈夫なの? 顔色良くないじゃないの」
「だ、大丈夫です。なんとも……ありません」
「私は平気でも先方が気を遣うの。寺尾、薫が回復するまで適    
 当に回って」
「承知しました」
 主人の苛立ち混じりの指示を、若き執事は小さく頷いて実行    
に移した。銀座に向かって新宿通りを走っていた車は、直進す    
るはずだった日比谷交差点を左折して、神田方面へと向かう。    
 しかし、薫は自分がどこに向かっているのかさえ分からず、    
暴れる自分の心と戦っているのだった。

 デパートの特別室で行われた買い物は、メイドの少女が夢見    
心地の内に終わった。まるで王侯貴族を相手にするかのような    
丁寧さでもてなされ、戸惑っている間に黒羽は数百万の風景画    
を買ったからだった。
「さすがに品揃えがいいわね。応対も非常に素晴らしいし、今    
 後も贔屓にさせてもらうわ」
「ありがとうございます。今後共よろしくお願いいたします」    
 深々と頭を下げる百貨店の店長に、黒羽は心のこもった言葉    
を返すと席を立った。
 慌てて薫も続いたので、ふたりの少女は副店長の案内でエン    
トランスへと向う。
「何か言ったらよかったじゃない。店長が不思議そうな顔をし    
 てたわ」
 部屋を出るなり、黒羽は小さな声で文句を言った。
「申し訳ありません。その……慣れてなくて」
「慣れてくれないと困るわ。ま、今回は仕方ないわね。次から    
 は気をつけて」
「分かりました」
 そう言って薫は頭を下げたが、憎き<敵>に下手に出ている    
自分に気づいて自己嫌悪に陥った。
 ……仕方ないじゃない。こうでもしなければ黒羽に近づくな    
んて不可能なんだから。普段あまり外に出ないし、行動パター    
ンもよく分からないし……。
「さて、買い物も終わったし、次の店に行くわ。本当はそっち    
 に行くのが目的だったのよ」
「え? 今日はここに来たかったんじゃないんですか?」
 特別室に通じる専用のエレベーターの前で立ち止まって、薫    
はびっくりしたように聞き返した。すぐ前には副店長もいたの    
だが、気にならなかった。
「こっちはついでよ、ついで。今からもっといいものを買いに    
 行くのよ」
「もっといいもの……」
 時価数百万円の風景画よりも<いいもの>が浮かばなかった    
薫は、思わず首を傾げた。その様子がおかしかったのか黒羽は    
「その内わかるわよ」と無邪気に言い切って到着したエレベー    
ターに乗り込んだ。
 ……わからないわね。もっと高い買い物でもするの? 大金    
持ちだからありえると思うけど。
 もっと理解できない点があった。
 今の黒羽はどう見ても、酸鼻を極めた惨劇の真犯人には見え    
なかったからだった。傲慢で高飛車ながらも、礼儀正しさも兼    
ね備えた令嬢そのものだった。
 どうなってるの? これじゃただのお嬢様じゃない。でも、    
さっき見せた態度は……。
 とりとめなく考え続けている内に、薫たちは特別客専用のエ    
ントランスから外に出た。平日の昼間ということもあって、さ    
すがの銀座もあまり混雑していなかったが、黒羽は漆黒の髪を    
なびかせながら北の方へと歩き始める。
「黒羽様、車は向こうではありませんか?」
「いいのよ。少し歩くから。目的の店は神田にあるの」
「歩くんですか?」
「お嬢様が自分の足で歩いて何が悪いの?」
 くるりと振り向いて、黒羽は気分を害されたような声で反論    
した。自分のことを<お嬢様>と言い切るあたり自意識過剰だ    
ったが、表向きは日本有数の名門の当主だからある意味仕方な    
いのかもしれない。
「申し訳ありません」
「まったく……。謝ってばかりね。二週間になるのに」
「なかなか慣れなくて……。さすがに初めてですから」
「まあ当然よね。わざわざ私の家のメイドになりたいなんて変    
 わり者はそういないから。だから採用したのよ」
「ありがとうございます」
 言葉は丁寧だったが、黒羽の瞳に温かみは無かった。その事    
に気づいて、薫は再び背筋が凍りつくのを感じる。
 まさか、黒羽は気づいてる? でも、そんなはずは……。一    
族が総力を上げてバックアップしてくれたんだから……。
 薫と黒羽は、春の日差しを受け止めながら、中央通りの歩道    
を北へ向かって歩き続けた。
 よく目立つ組み合わせだからか、通行人から何度も視線を感    
じたが、薫もあえて気にしなかった。
 前を歩く黒羽が歩く方向を変えたのは、かなりの距離を歩い    
た後のことだった。中央通りから小さな横道に入ると、小さな    
洋風の店の前で立ち止まる。
「ここで買い物をするわ。ま、さっきみたいな事にはならない    
 から安心して」
「この店は……アンティークショップですか?」
「そうよ。通好みの店で知ってる人は少ないけど、私が気に入    
 っているの」
 上機嫌に言い切ると、黒羽は扉を開けて店の中へと入ってい    
った。大量殺人犯でもある吸血鬼とは思えない程の趣味の良さ    
に矛盾を感じていた薫もそれに続く。
 狭い店内は、海を越えて渡ってきた古い品物が、所狭しと並    
べられていた。あまり興味のない薫ですら目を奪われる程だっ    
たが、黒羽は迷わずにカウンターに進むと店番をしていた老人    
に声をかける。
「注文していた物が入ったと聞いたけど」
「はい。ようやく入荷しました。お嬢様好みの逸品です。しば    
 らくお待ちください」
「黒羽様、何を注文したのですか?」
 とりあえず目的だけでも把握しようと、薫は主人の横に並ん    
で質問した。
「すぐに分かるわ。私の<趣味>に欠かせないものなの」
「趣味?」
 自分でつぶやいた言葉を正確に理解するまで、数呼吸の間が    
必要だった。少女吸血鬼が趣味を持っているという情報は、今    
まで聞いたことがなかった。
「世にも珍しい趣味だけど、あなたもきっと興味を持つと思う    
 わ。とっても楽しいんだから」
「お嬢様、こちらになります」
 薫が返事を見つけられないでいる内に、店の老主人が大きな    
木箱を抱えて戻ってきた。カウンターに置くと、蓋を開ける。    
「え……? これは……」
 木箱の中に入っていたのは、繊細な装飾が全体に施された古    
い木の箱だった。一瞬、オルゴールかと思ったが、大きさはそ    
の数倍はあった。
「昔、フランスの貴族が愛用していた箱よ。さすがに美しいわ    
 ね。手に入れるのは大変だったはずよ」
「お嬢様が金に糸目はつけないとおっしゃられてくれたのでど    
 うにか見つけられました。支払いの方は……」
「いつも通りでいいわ。……また注文させてもらうからその時    
 もお願いするわ」
「畏まりました」
 相手の正体をまったく知らないのか、老店主は恭しく頭を下    
げた。黒羽はそれに対して満足そうに頷くと、古い箱の入れら    
れた木箱を持ち上げる。
「あ、わたしが持ちます」
「これはいいわ。どうせ寺尾が車を回してくれるし」
「はい……。それ程高いものなんですか?」
「値段じゃないわ。価値があるの。この手の箱は<箱庭>を作    
 るのに最高なのよ」
「箱庭……。それが黒羽様がおっしゃってた趣味ですか?」
「やっと気づいたわね。この小さな箱に<世界>を作るのが私    
 の一番の楽しみなのよ」
 分かってみると、意外性はあまり感じられなかった。珍しい    
趣味ではあったが、おかしな点は一つもなかった。
 だから情報が無かったのね。といっても、黒羽についてはわ    
からないことが多すぎるけど……。
 店のショーウィンドウ越しに、見覚えのある黒塗りの車が停    
まるのが見えた。黒羽の言葉通りに寺尾が車で乗りつけたのだ    
った。
 それに合わせるかのように買い物を終えた黒羽は箱を抱えて    
歩き始めたが、薫はここでの買い物に深い意味が無かったこと    
に少しだけ落胆しているのだった。