第一話―1 新人メイド・藤間薫

 烏丸家の新人メイド・薫の朝は目覚まし時計の音で始まる。    
 無骨な金属音が響き渡ると、十二畳程の広さの洋間の窓際に    
置かれたベッドで、黒髪の少女はもそもそと身体を起こす。
「もう朝なんだ……。寝たばっかりだと思ったのに」
 手で押さえながら小さなあくびを漏らすと、ベッドから出て    
まだ夢を見ているかのような足取りで洋タンスの方へと歩く。    
扉を開けると鏡に顔が写ったが、そこにいたのはごく普通の容    
貌をもつ少女だった。
 まさか二週間もここで過ごすことになるなんて思ってもみな    
かった。黒羽様は隙が無いし、わたしも優柔不断だから……仕    
方ないかも。
 小さく首を傾げてそんな考えを捨てると、パジャマを脱ぎ捨    
てて仕事着……メイド服に着替える。濃紺色のワンピースに白    
いエプロン、そして胸元には紅いリボンという姿に最初は戸惑    
ったものだったが、今ではすっかり馴染んでいた。
 品はいいのよね、品は。変にスカートの丈が短いわけじゃな    
いし、ちゃんと似合ってるみたいだし。でも、本当にメイドが    
務まるなんて思わなかった。
 薫は一見すると普通の少女だったが、その正体は吸血鬼ハン    
ターの家系に生まれた生まれつきの<狩人>だった。
 今回の獲物は日本土着の吸血鬼の中でも最高の血筋と実力を    
誇る烏丸黒羽。実力の差は非常に大きかったが、どうしても挑    
まなければならない理由があった。
 同じ血を分けた妹であり、優秀な吸血鬼ハンターだった響が    
黒羽の手によって呪いをかけられ、死に近い<眠り>について    
いたからだった。
 呪いを解く方法は二つ。黒羽が術を解除するか、黒羽を殺す    
しかなかった。
 でも、わたしで勝てるの……? 響でさえ負けた相手なのに    
落ちこぼれのわたしなんかが……。
 そんなことを考えている内に、着替えは終わった。脱ぎ捨て    
たパジャマを畳んでベッドの上に置くと、薫は部屋から出る。    
 少女吸血鬼を主とする屋敷内はまだ朝早いこともあって静ま    
り返っていた。
 とはいっても、広大な邸内に常時いる人間は十人程なので、    
いつも閑静そのものだった。
「こんなに広いのに人が少なすぎるのよね……。お金持ちって    
 何考えてるのか分からない」
 誰かに聞かれてもかまわない文句をつぶやきながら、足早に    
主人である黒羽の部屋に向う。今いる建物は薫など黒羽の世話    
役たちが住んでいたが、あまりの大きさに最初はここが本邸か    
と思った程だった。
 スカートの裾と束ね髪を揺らしながら、本邸につながる廊下    
へと曲がった時だった。
 厨房担当のメイドの春奈(はるな)と鉢合わせになった。
「あ、春奈さん。おはようございます」
 相手が七、八歳ほど年上の<大人>の女性なので、薫は慌て    
て立ち止まって頭を下げた。
「おはようございます。黒羽様のところへ行かれるところです    
 か?」
「はい。少し寝坊してしまいました……」
「黒羽様は時間には厳しい方ではないけど気をつけて」
 かしこまった薫が再び頭を下げると、先輩メイドの春奈は表    
情一つ変えずに歩き去っていった。これから厨房で全員の朝食    
を作るのだろうが、その後ろ姿を見送って薫は溜め息をつく。    
「もう……。なんであんなに堅苦しいの? わたしが新人だか    
 ら?」
 ここで働き始めて二週間になるが、未だに他の使用人たちか    
らは笑顔を向けられたことがなかった。かけられる言葉もどこ    
か感情がこもっておらず、気分は良くなかった。
 それとも、わたしの正体に気づいてる? ……そんなわけな    
いわね。偽装は完璧のはずだから。……わたしがやったわけじ    
ゃないし。
 響を助けられるのは薫しかいないこともあり、それこそ一族    
の期待を背負いながらここに潜入したことを思い出しながら、    
薫は廊下を渡って本邸に足を踏み入れる。
 闇の中に生きる吸血鬼が住んでいるとは思えない程、瀟洒な    
内装を横目に階段を上がり、すぐ目の前の扉を開ける。
「遅いわね。私の世話役がそんなことでどうするのよ」
 少し低いながらよく通る美声で飛んできた言葉の矢が飛んで    
きた瞬間、薫の気持ちは大きく落ち込んだ。
 広大な庭園を望むテラス。朝の光を全身で受け止めながら、    
黒羽は優雅に朝のお茶を楽しんでいた。
 その横には黒のスーツで隙無く固めた眼鏡の青年……寺尾が    
恭しく控えている。黒羽の執事であり、烏丸家の財産の運用を    
一手に任されている有能な人物だった。
「私が起きる時間は知ってるんでしょう? それに合わせて欲    
 しいわね」
「申し訳ありません、黒羽様。今後気をつけます」
 反射的に薫は頭を下げた。相手が憎き吸血鬼とはいえ、ここ    
は怒りを爆発させる場面ではなかった。
「その言葉も何度聞いたかしら? 姿はとても立派なのに働き    
 ぶりは相変わらずなんだから」
「承知しております」
「ま、いいわ。寺尾はそろそろ自分の仕事があるから代わりに    
 給仕をして」
「分かりました」
 軽く頭を下げて、寺尾は黒羽の側から離れた。薫と目が合う    
と「後を頼みましたよ」と感情のこもらない声をかけて部屋か    
ら出て行く。
「……なにぼんやりしてるの? 給仕して。給仕」
 既に何度も声をかけられたことがあるのにも関わらず、憧れ    
の男性タレントを見送るかのような表情を浮かべていた薫だっ    
たが、黒羽の刺々しい声に我に返った。
 自分に迂闊さに呆れながら、テーブルのポットを持って黒羽    
のカップに紅茶を注ぐ。
 テラスから見えるのは、朝の光をいっぱいに浴びて輝く春の    
花々。吹き抜ける風も都心とは思えないほど穏やかで、自分が    
どこにいるのか一瞬分からなくなる。
「まったく、もう少しは気づきなさいよ。いつまでも新人じゃ    
 ないんだから」
「申し訳ありません。不慣れなもので……」
「分かってるわ。先月で高校を退学して、ここで働き始めたん    
 でしょう? あなたみたいな子は初めて」
「学校で色々あったんです……」
 少し俯いて、薫は予め用意しておいた嘘を言葉にした。
 本当はこの任務のために休学しただけだったのだが、それだ    
けに学校のことを言われると辛かった。
「それより、黒羽様は学校には行かれないのですか?」
「あんなつまらない場所に行くわけないじゃない。私には優秀    
 な家庭教師が幾らでもいたんだから。ま、その気になったら    
 アメリカの有名な大学にでも留学するわ」
「凄いですね、黒羽様は」
「当たり前じゃない。私は名門・烏丸家の当主なんだから」
 自分の家柄を誇る時、黒羽は必ず不敵な笑みを浮かべる。
 最初は嫌味かと思い、反発していたのだが、実際は単に自慢    
したいだけのようだった。
 以外なほど単純なところもあるのよね。凄い力を持つ吸血鬼    
なのに。私が藤間家の人間だということにも気づいてないし。    
 もし、気づかれたらその瞬間に全てが終わるはずだったが、    
そのような気配は微塵も感じられなかった。
 嫌味を言いながらも黒羽は二週間前に入ったばかりの新人メ    
イドを重用していたからだった。
 ゆっくりとした動作で、黒羽が紅茶を飲み終えた。
 癖一つ無い漆黒の髪を春風になびかせながら庭園を眺めると    
思いついたように口を開く。
「今日は出かけるわ。あなたも付き添って」
「え? わたしが、ですか……? 寺尾さんではなくて?」
「寺尾は運転手よ。私はあなたと出かけたいの」
 見つめ返してきた黒曜石のような瞳に、邪気は感じられなか    
った。一見すると<気の強い和風美少女>にしか見えないので    
あるが、その正体を知る薫は背筋を冷たいものが流れる。
「……。分かりました」
「決まりね。十時になったら準備をするからそれまではいつも    
 通りよ。今日もよろしく頼むわね」
「はい、黒羽様」
 内心の動揺を隠しながら、薫は頭を下げた。
 相手が強大である以上、今はおとなしくしているしか方法は    
なかった。