東風の少女            
                            
        プロローグ 鏡の中から         
                            
 やわらかな初夏の日差しが差し込んでいた。
 待ち合わせの人たちで混雑するJR渋谷駅前のハチ公像。 
 そこに背中を預けて、東野風香は空を見上げていた。
 肩の下できれいに切り揃えた髪に、漆黒の丸い瞳を持つ小柄
な少女である。
 地味な普段着姿なのにも関わらず、足元に大きなスポーツバ
ックを置いているのがどこか不釣り合いだったが、温和でかわ
いらしい雰囲気を漂わせているのが印象的だった。
 遅いわね、美幸ったら。いつも遅れるんだから。
 目線を落とした先にあるデジタル表示の時計が、午前八時四
十分を指しているのに気づいて、風香は少しばかり頬を膨らま
せて思った。
 今日は初めての会場だから早く行きたいのに。また寝坊でも
したのかしら?わたしも何とか起きたのに。
 そう思いながら、足元のバックを見つめる。
 そこには、午前二時までかかって仕上げたオリジナルのコス
プレ衣裳が詰められていた。
 そのせいでここに来る電車の中でも寝ていたほどだったが、
初めてオリジナルに挑戦できるという満足感もあった。
 早く着てみたいわね。家では全部試着している暇も無かった
し。だから早く会場に行きたいのに遅れるんだから。
 頼りになるものの、どこかルーズな友人のことを考えながら
視線を戻した時だった。
 かすかな風が吹き抜けたような気がした。
 自分の名前のせいか、自然の風が好きな風香はきょとんとし
て当たりを見回したが、周囲で待ち合わせする人たちは誰も気
づいていないようだった。
 きっと気のせいね。ここは都会の真ん中なんだから。
 確かめるように、もう一度視線を周囲に向ける。
 気持ちよく晴れた日曜日の朝ということもあって、若者の町
はすでにかなり賑わっていた。
 人の流れは途切れる様子もなく、遠くに見える交差点もかな
り混雑していて、肌にも活気が伝わってくるほどだった。
 でも、きれいな風が吹く場所に行きたいわね。帰りどこかに
寄っていこうかしら?                  
 ファッションビルの壁に掛けられた液晶ビジョンに映るビデ
オクリップを眺めながら、とりとめなく考えていた時だった。
 ヒット曲をアレンジした電子音が鳴り響いたので、ポケット
から携帯電話を取り出すと、むすっとして耳元に当てた。  
「もしもし?美幸でしょう?」
<当たり。ごめん。今渋谷に向かってる途中だからもう少しだ
 け待って。一本電車逃しちゃったの>
「この前も同じこと言わなかった?」
<え?そうだっけ?それより、衣裳できた?>
「うん。今日の二時までかかったけど出来てるわ。試着もして
 ないから変なところが無いか不安だけど」
<大丈夫よ。風香ってそういうの得意でしょう?あたしがチェ
 ックしてあげるから安心して>
「そう言って、また抱きつかないでね。わたしが可愛いコスプ
 レすると必ず猫可愛がりするんだから」
 げんなりしたような表情で、風香は言った。
 可愛いものに目がない美幸の最大の悪癖は、たとえ相手が嫌
がろうと思い切り抱きついてくる点だった。
 小柄で愛嬌のある風香の場合、何度<被害>に遭ったかわか
らなかった。
<可愛かったらいいじゃない。だって、風香って子猫みたいで
 とってもかわいいんだから。じゃ、一度切るわね>
 言うだけ言って、電話は切れたが、風香は小さく肩を落とし
て携帯をポケットに戻している。
 今回作ったコスプレ衣裳は、猫少女とメイドを組み合わせた
ようなかわいいものなので、抱きつかれるのは確実だった。
 美幸の猫可愛がりには参るわね。わたしこう見えても同じ高
二なのに。背が小さいのが悪いのかしら?身長も百五十無いか
ら中学生に間違えられてばかりだし。美幸が羨ましいわね。 
 とりとめなくそのような事を考えながら、親友の少女が来る
のを待ち続けているのだった。
                            
 星野美幸が風香の元に走ってきたのは、それから十五分後の
ことだった。
「風香、お待たせっ!」
「美幸、二十分以上遅刻」
「ごめん。家出てから忘れ物に気づいたの。まいったわね」
「だから、この前もそう言ったでしょう?」
「え?だったっけ?とにかく、早く行かないと長く並ぶことに
 なるわよ。待つのは嫌でしょう?」
 精一杯の皮肉も、友人にはまったく通じなかった。
 ふわりと長い髪を揺らして、JRの乗車口の方へと歩き始め
たからである。   
 慌てて、バックを持ち直した風香も続く。
「今日はオリジナルの方がメインなんでしょう?コスプレ」
 駅の建物内に入ったところで、美幸が振り向くなり言った。
「もちろん。一応他のも持ってきたけど。あ、写真撮ったら美
 幸のホームページにアップしてね」     
「もちろんよ。風香って人気あるのよね。あたしのホームペー
 ジなのに半分以上が風香目当てで来てるらしいわよ」
「そうなの?」
 思わず、風香は聞き返していた。
 自分に比べれば背の高い美幸が、このような事を言うとは思
わなかったからである。
「うん。それより今日はベイウィングだから、浜松町までね。
 あたしが切符買ってくるから」
「あ、うん。お願い」
 うなづくよりも早く、美幸は混雑する切符の自動発売機の行
列に並んでしまった。
 再び一人になった風香は、スポーツバックをを床に下ろして
小さく溜息をつく。
 重いわね、やっぱり。コスプレ衣装二つも入れてきたし。今
日も美幸はいつものコスプレするのかしら?
 この前のイベントで、二人揃うと撮影者が続いて大変だった
事を思い出す。
 写真を撮られるのは好きだったが、何十回もポーズを決めて
いるとさすがに疲れたものだった。
 今日はオリジナルだから少しは減るはずね。たまにはゆっく
りとスペースも見て回りたいし。
 そう思いながら、友人を待ち続けている時だった。
 突然、周囲の雑踏が聞こえなくなったかと思うと、誰かが背
後から呼びかけてきたような気がした。
 短く切り揃えた髪を揺らして振り向いてみたものの、ホーム
へと続く自動改札口と乗り降りする人の流れがあるだけで、見
知った顔は無かった。
 なにかしら?気のせい?
 気味が悪かったものの、長い髪を大きく揺らして美幸が戻っ
てきたので、すぐに忘れて、荷物を持ち直したのだった。  
                            
 完成したばかりの大型イベントホール「東京ベイウィング」
は、初めて開かれた同人誌即売会で賑わっていた。
 その一角に用意された女子用更衣室で、風香が着替えを終え
たのは、入場してから三十分ほどしてからだった。
 フリルのついた藍色のワンピースに、靴下と黒靴、エプロン
を身につけていたが、白く長い尻尾と猫耳を頭に付けて、手袋
も猫風にまとめた姿である。           
 うん。上等ね。ほとんど猫風メイドさんって感じだけど。い
っぺんやってみたかったのよね。こういう感じのコスプレ。 
 私服をスポーツバッグの中に詰めて、風香は満足していた。
 前からオリジナルのコスプレをしてみたかったこともあり、
充実感もひとしおだった。                
 あ、いけない。大事なもの忘れちゃった。これがないと色々
大変ね。                        
 一度バックのチャックを締めた風香だったが、すぐに開け直
すと中からベルトポーチを取り出した。
 携帯電話、住所交換用のメモ帳とシャープペン、使い捨てカ
メラが入っているのを確かめると、腰に巻く。
 そういえば、財布入れてなかったわね。例のサークルの同人
誌も買いたいし、アイスも食べたくなるわね。
 そう思いながら、再びバックに手を伸ばした時だった。
 ……え?                       
 突然、耳元を風が吹き抜けたような気がして、風香はきょと
んとして当たりを見回した。
 夏が近いとはいえ、窓は開いておらず、ただ多くのコスプレ
イヤーが賑やかに話をしながら着替えをしているだけだった。
 変なの。もしかして、頭が寝てるのかしら?       
 自分の寝起きの悪さを思い出して、小さく頭を振った時のこ
とだった。
 いきなり背後から誰かが抱きついてきた。
 抵抗しようとしたもののかなわず、いささか乱暴に猫可愛が
りされてしまう。
「かわいい……。このまま持ち帰りたいわ。それで部屋に飾っ
 とくの。ぬいぐるみなんかよりずっと可愛いわ」 
「み、美幸。抱きつくのやめて。わたしがこういうコスプレす
 るといつもなんだから。そんな趣味無いのに」
「あたしはかまわないわよ。とっても可愛いから」
 そう言って、すでに着替えを済ませた美幸は頭をぽふぽふと
撫でてくる。
 身長差があるので、ほとんど子供扱いだった。
「もう離れて。しわになっちゃうじゃない」   
 ぴょこんと、風香が美幸の手から逃れたのは、しばらくして
からのことだった。
 思った通り、作ったばかりの衣裳は少し乱れていた。
「あーあ。変になっちゃった。美幸、悪いけど先に行ってて。
 わたしは直してから行くから」
「うん。ごめんね。でも、本当にかわいいわよ」
 笑って言い切ると、美幸はそのまま入り口に消えて行ったが
風香は備え付けの鏡に全身を映す。
 美幸に抱きつかれて乱れた所を直して、もう一度上から下ま
で確かめる。
 身長百五十センチもない小さな体だったが、手製の衣裳は自
分でも似合っていると思った。
 今日はがんばらなくちゃ。風香、ふぁいと。
 冗談半分に鏡の中の自分に呼びかけた、その瞬間だった。 
 大きな鏡が波打ったような気がした。
 何が起こったのか分からず、呆然とする風香の耳元を<風>
が吹き抜け、それに背中を押されて鏡の方に体が揺れる。  
 思わず目を閉じて、次の衝撃を覚悟した少女だったが、それ
は無かった。
 床から足が離れたかと思うと、そのまま飛び込むようにして
鏡の中へと落ちていってしまったからである。
 その時、周囲には多くの人間がいたのであるが、彼らが視線
を元に戻した時には、猫少女の姿をした少女はどこにも存在し
ていなかった。