第22話 夜風吹き抜けて
                            
 永遠に続くかと思うほど間延びした時間が過ぎ去って、待ち
続けていた夜がきた。
 部屋の片隅にちょこんと座り込んで、障子越しに差し込む光
が少しずつ弱まっていくのを眺めていた風香だったが、最後の
光が消え去るのを確認すると同時に。
 ようやく立ち上がって、大きく伸びをした。
「少しは大人しくしてろよ。兄貴はまだこの部屋で伏せてるこ
 とになってるんだぜ」
 すかさず、槍太が小声で注意する。
「ごめん。ようやく夜がきたからついね。隼人さん、準備はで
 きてるのかしら?」 
「できてるはずだ。さっき、様子を見に行ったからな」
「ならいいんだけど……」
 ぽつりとつぶやいて、風香は再びその場に膝をついたが、な
ぜか漠然とした不安が胸の奥でくすぶっていた。
 気になるほどではなかったが、一度意識するとなかなか消え
ないのが嫌だった。
 どうしてこんなに不安になるのかしら?わたしが島を出るこ
と自体が間違いなのかしら?
 ほんの数日を過ごしただけだったが、風香はこの小さな島が
好きになっていた。
 海を渡る風は穏やかだったし、島民たちも白拍子の少女には
とても親切で、現代で失ったものを完全に取り戻せたような気
さえしていたからだった。
 でも、だからってここに残っても意味ないわ。現代に戻るに
はアダムの言う通りにしないといけないんだから。
 アダムはジルベールさんが何かを抱えていて、それを止めな
いと大変な事になるって言うけど、どうしてもそう思えないの
よね。海若さんを助けたのもジルベールさんだったし。
 そう思いながら、東洋風の雰囲気を持つ南仏人の方を見る。
 昼間はエリアノールと何かを話していたのであるが、今は目
を閉じて考え事をしているようだった。
 悪い人じゃないのは確かなんだけど、言葉が通じないんじゃ
何もできないわね。海若さんも言ってたけど、このまま旅を続
けるんだったら言葉を覚えないと駄目かしら?
 昼間雑談の中で出た話を、ふと思い出した時の事だった。
 廊下の方で大きな足音がしたかと思うと、港に行ったはずの
隼人が姿を現した。
 普段は滅多に表情を変えないのであるが、海若を見るなり青
ざめた顔で告げる。
「大変なことになった。お前が生きている事が他の連中にもば
 れている。このままではまずい」
「ばれてるって、どうして!?
「それはどうでもいい。しかし、まずいな。連中は俺が生きて
 いる以上<化け物>だと思い込んでいるはずだ。このままだ
 とここにいても危ない」   
 隼人は小さく首を振っただけだった。
 その意味を悟って、さすがの海若も顔色を変える。
「連中は、こっちに向かっているのか!?
「甲龍に近かった奴が焚きつけてみんな動きだした。おれは何
 とか逃げられたが、もうここに着くはずだ」
 深い沈黙が訪れた。
 事実だけを告げる隼人の言葉に海若が考え込んだからである
が、それも長くは続かなかった。
 顔を上げると、日本語と漢語でこう言ったからである。
「ここは危ない。風香、槍太、エリアノールたちは裏口から港
 に逃げるんだ。今すぐこの島から離れろ」
「待ってください!なんで海若さんが残るんですか!?
「島の事を知っているのは海若だけ。なぜ残るの!?
「兄貴、一緒に逃げないんですか!?
 二つの言葉で一度に反論を浴びせられて、海若は一瞬面食ら
ったようだった。
 苛立ちを抑えきれない様子でもう一度宣言する。
「このままだと全員捕まる。だから俺が引きつけている間に逃
 げるんだ。後で俺も追いかける」
「そんな!本当に追いつくんですか!?」  
「そういう問題じゃない!俺の不始末だから俺がけりをつける
 だけだ!文句あるのか!?
「文句なら山ほどあるわ!」
 海若の剣幕に思わず身を引いた風香と槍太だったが、エリア
ノールが突然立ち上がったのでびっくりした。
 両手を腰に当て、激情のままに言葉を叩きつける。
「だいたいあなたは一人で何でも抱え込もうとするじゃない!
 そんなに人の手を借りるのが恥ずかしいの!?くだらない面子
 なんて捨てて!あたしたちはあなたの力が必要なの!」
 再び、沈黙がその場を包み込んだ。
 あまりの迫力に風香たちは言葉を失い、隼人もまた押し黙っ
て海若の返事を待つ。            
「わかった。あんたの言う通りだな。俺も一緒に島を出る。あ
 んたたちを島に案内すると約束しているからな」
「……ありがとう」
「礼はいい。それより、行くぞ。隼人、ここでお別れだな。ず
 っと俺を支えてくれて助かったぜ」
 副首領は小さくうなづいただけで何も言わなかった。
 言葉に出さなくても気持ちは全て伝わったのだろう。
 それを確かめた海若はようやく口の端に笑みを浮かべると、
座り込んだままの風香たちを立ち上がらせた。
「どこへ行くんですか?港?」
「ああ。島の連中が押しかけてくる前に船を押さえないといけ
 ないからな。急ぐぞ」
 簡潔に答えると、海若は全てを振り切るかのように足早に部
屋から出た。
 ただ一人その場に残る隼人の事が気になったが、風香も槍太
と肩を並べてそれに続いたのだった。
                            
 裏口から外に出ると、周囲は漆黒の闇だった。
 現代にいた頃の風香ならば、怖くなってすぐに建物の中に戻
ってしまうところだったが、今では星明りさえあれば闇の奥を
見通す事ができた。
「ここからでも、港に行けるんですか?」
 唯一の荷物であるベルトポーチが着物の下にあるのを確かめ
て、風香はきいた。
「少し遠回りになるが行けなくはない。ただ、港で待ち構えて
 いる連中がいるはずだから最悪の場合は覚悟しておけよ」
 何を覚悟していいのかわからず、思わずきょとんとしかけた
風香だったが、海若が<かつての>部下たちと一戦交える事も
考えているのに気づいて、胸が苦しくなった。
 もしかして、屋敷に残ろうとしたのは島の人たちを説得した
かったから?
 問いかけようとして、白拍子の少女は口をつぐんだ。
 屋敷を出てしまった以上、戻る事はもはや不可能だった。
 一行は、星明りだけを頼りに港への坂道を下り続けた。
 先頭を歩く海若の緊張感が伝わるのか、誰も口を開かず黙々
と足だけを進める。
 時折海から吹く風に、潮の香りが強くなった時だった。
 突然、海若が立ち止まった。
「どうしたんですか?」
 すぐ後ろにいた風香がぶつかりそうになりながらきいた。
「港で数人が番をしている。俺たちが来るのを予想していたみ
 たいだな」
「じゃ、このままだと……」
「ああ。船には乗れない。やはり、やるしかないか」
 苦渋だけを込めて海若がつぶやいたかと思うと、腰に差して
いた刀に手をかけたので、風香は全身が冷たくなった。
 ほとんどとっさに海若の腕を掴む。
「お、おい。何をするんだ」
「駄目!もう、殺さないで!そこまですることないわ。事情を
 話してなんとかしてもらうしかないわ」 
「馬鹿、それができれば苦労しない。俺だって仲間に手をかけ
 るなんて最低な事はこれ以上したくない。ただ、しばらく動
 けなくするだけだ」
「でも……」
「おい、いたぞ!海若たちだ!」
 風香につられるように、海若が感情的に声を上げたのが命取
りとなった。
 港に詰めていた島民たちが篝火を手に持って駆けつけてくる
と、風香たちを取り囲んだからである。       
「やっぱり生きていたのか。じいさんが薬を処方していないの
 に生きてるってことは、本当に<化け物>なんだな。見損な
 ったぜ」  
「おい。槍太。なんでお前まで一緒なんだ?こいつは化け物だ
 ぜ。早く離れろ。お前まで巻き込みたくない」
「勝手な事抜かすなよ!兄貴は化け物なんかじゃないぜ!」
 突然、心の底に溜まっていた何かを吐き出すかのように槍太
が叫んだのはその時だった。
「オレはこの目でずっと見てたんだぜ!兄貴は本当に死にかけ
 てたんだ。それをここにいる異人と風香が助けたんだ。だっ
 たら文句無いだろ!?
「嘘を言うな!こいつらは鬼だろう?鬼が化け物を助けるのは
 おかしくないだろう?仲間同士なんだからな!」  
「槍太の言葉に嘘はありません!」
 たまりかねて風香も進み出たのは、その時だった。
 漆黒の瞳に涙を浮かべ、感情だけで言葉を続ける。  
「わたしもずっと見ていました。海若さんは死にそうだったん
 です。それなのに何もできなくて、ジルベールさんが薬を作
 ってくれなかったら本当に駄目だったと思います。それなの
 に<化け物>なんて……」 
 思った以上に強い夜風が、その場の全ての人たちの間を吹き
抜けていった。
 エリアノールとジルベールはその風を呼んだのが白拍子の姿
をした少女である事に気づいたが、当の本人はまったく意識し
ていないようだった。
 言うだけ言って、その場に泣き崩れてしまったからである。
 さすがに気まずいものを感じたのか、海若たちを取り囲んで
いた島民たちは小声で話し合いを始める。
「なあ、おれには嘘とは思えないぜ。槍太だって嘘をつくうな
 な奴じゃないし、白拍子様に至っては客だぜ。どうもあの鬼
 が薬を作って助けたみたいだな」      
「だいいち、鬼が槍太や客人と一緒にいるっていうのも妙だよ
 な。完全に信頼してるみたいだしな」
「でも、見逃すと後が面倒だぜ。ここは捕まえておいて……」
「おれは嫌だな。少なくとも、白拍子様には罪は無い。捕まえ
 るならおれは抜ける」
「お、おい」
 吹き続ける海風に翻弄されるように、島民たちは動揺を隠せ
なくなっていた。
 噂で聞いた限りでは甲龍の言葉に嘘があるとは思えなかった
し、かといって槍太や白拍子の少女が自分たちを騙そうとして
いるようにも思えなかったからである。
「風香、大丈夫か?」
 何をしていいのかわからず、海若が泣き続ける風香に声をか
けたのはその時だった。     
「え?は、はい。たぶん。でも……」
「そう泣くなよ。少なくとも、誰もお前さんに危害を加えるつ
 もりはないみたいだぜ。まあ、俺がそうさせないけどな」
「海若さん……」
 涙を拭いて、ようやく風香が立ち上がった。
 それに合わせるかのように風が凪いだが、エリアノールたち
以外は気づいていない。
「で、どうするんだ?お前たち。誰を捕まえて誰を見逃すつも
 りなんだ?いい加減こっちも待ちくたびれてるんだぜ」
 なおも話し合いを続ける島民たちに、立場も忘れて海若が怒
気を込めて言い放った時の事だった。
「何をしてるんだ?お前たち」
 聞き覚えのある重い声が、闇の奥から聞こえてきた。
                            
 声を上げたのは、屋敷に残ったはずの隼人だった。
 海若たちが驚くのもかまわず、足早に坂を下りて来る。
「隼人、お前どうしてここにいるんだ?」
「屋敷に押しかけてきた連中を説得して納得させた。お前は化
 け物じゃないとな。だからお前たちも道を開けるんだ」  
「隼人……」
「後をおれに託したのはお前だろう?おれは言われた通りにや
 ってるだけだ。早く行くといい」
 言葉はそれだけだった。
 事態の急変に呆然とする海若たちやそれを取り囲んでいた島
民たちにかまわず、再び闇の奥へと消えて行ったからである。
「助けられましたね。隼人さんに」
 取り囲んでいた島民たちに見送られながら、港へと歩きなが
ら風香がつぶやいた。                  
「ああ。俺なんかよりはるかに頭領に向いてるな。任せてよか
 ったぜ。とにかく、これで堂々と島を出られるわけだ」
「名残、惜しくないんですか?」
「いや。今だから言えるけど、ここは本当に俺のいる場所じゃ
 ないってずっと思ってたんだ。頭領になったのも半ば成り行
 きだったし、島をまとめきれなかったのも無理ないな」
 海若の言葉には色々な含みがあったようだったが、風香にそ
の真意はわからなかった。
 ただ、後ろめたい思いをせずに島から出られる事は素直に喜
んでいた。
「ねえ、ジルベール。風香の事、気にならない?」
 そんな少女の姿を後ろから見つめながら、エリアノールは小
声で従者の青年にきいた。
「あの子の行くところにはいつも風があるわ。それも、人を不
 思議な気分にさせる風が……。あの子は何者かしら?」
「正直なところ、私にも分かりかねます。確かに鏡の中から召
 還したのは私ですが、彼女が出てくるとは思わなかったので
 す」
「だったらあの時、あなたは何を呼ぼうとしたの?」
「エリアノール様には関係ない事です。ただ、あの時最善の手
 を尽くそうとしたのは事実です」
 珍しいことだったが、ジルベールは答えをはぐらかした。
 それに気づいたエリアノールは形のいい眉を寄せたが、特に
何も言わなかった。
 それぞれの思いは複雑に交錯していたが、やがて港に着いた
五人は船に乗り込むと、深夜の玄界灘へと出帆していったのだ
った。