第21話 海若の見た夢
                            
 まんじりとしないまま、時だけが過ぎていった。
 毒に侵された海若の容体に、変化はなかった。
 時折漢語で何かを言うものの意味はわからず、熱が下がる兆
しもなかった。
「娘さん、後はおれがやる。あんたは休んでてもいい」
 いささか不器用な口調で隼人が口を開いたのは、風香が小さ
な桶に水を汲んでこようと席を立った時だった。
「大丈夫です。それに、今のままでは心配で眠れませんし、や
 らせてください」
「わかった。ただ、辛くなったらすぐに言ってくれ」
 ぶっきらぼうな感じもする言葉だったが、口の重い副首領が
精一杯気を使っているのが風香にはよくわかった。
 内心感謝しながらうなづいてみせると、そのまま桶を持って
屋敷の外に出る。
 中空にかかる月から差し込む光が、当たりの景色を幻想的に
浮かび上がらせていたが、それを眺めつつ井戸へと向かう。
 まだ夜は明けそうにないわね。朝になったら隼人さんは船を
出すって言ってたけど、間に合うのかしら?
 釣瓶を落として、新しい水を汲み上げながら風香は口に出せ
なかった不安を心の中で反復した。
 悪くはなってないけど、良くなる様子も無いし。それに高熱
が続いたら、体力だって無くなるわ。海若さん、丈夫だからま
だ平気かもしれないけど。
 釣瓶に汲んだ水を手桶に移して、風香は井戸を後にした。
 夏が近いので水はあまり冷たくなく、例によって塩分を含ん
でいたが、この際贅沢は言ってられない。
 月光の中を屋敷に戻っていた時のことだった。
 なにげなく港に通じる道の方を見て、風香は手桶を落としそ
うになってしまった。
 月明かりに照らされて、二人の異邦人がこちらに向かってく
るのに気づいたからである。
 港でいつの間にか姿を見失ったエリアノールたちだった。
「エリアノールさん、ジルベールさん!」
 はっきりと姿が見えるのと同時に、言葉が通じないのにも関
わらず風香は呼びかけていた。
 二人とも気づいたようだったが、まるで旋風のように少女の
前を走り抜けて、屋敷内へと飛び込んでゆく。
 どうしてあんなに慌ててるのかしら?もしかして、海若さん
の治療法を見つけたのかしら!?
 思いつきに過ぎなかったが、かまわなかった。
 風香も着物の袖を翻して、後を追いかけたからである。
「で、これからどうするの?」
 従者の青年が土間でようやく足を止めたので、エリアノール
は確かめるようにきいた。 
 その後ろから、風香もひょっこりと顔を出す。
「今からこの薬草を元に解毒剤を作ります。秘法を駆使します
 ので、エリアノール様は先に行っていてください」    
「秘法?例の先祖伝来のもの?」
「そう思って下さって結構です。後で説明します」
 ジルベールの言葉には有無を言わせない響きがあった。
 それに押されるようにして、エリアノールは土間から出よう
としたが、その時になって風香がいるのに気づく。
「ここは大丈夫。ジルベールに任せておけばいいわ」
 通じないとはわかっていたが、自分に言い聞かせるように言
うと肩に軽く手を置く。
 それで意味を悟ったのか、エリアノールが土間から出ると少
女は海若がいる部屋の方へと歩いてゆく。
 海賊の首領の様子は、想像していたよりも良くなかった。
「え?」
 看病していた少年の敵意むき出しの視線にもかまわず、部屋
に入って腰を下ろしたエリアノールだったが、海若のうわ言が
耳に入るのと同時に。        
 驚きを顔に出してしまった。
 <ここはまさに桃源郷だ。仙樹さまさまだな>どういう意味
かしら?桃源郷と言えば、大都にいた時に何度か聞いたわね。
かの国の<楽園>だとか。
 そこまで考えて、エリアノールは海若に<楽園>の話をした
時に露骨に嫌な顔をしていたのを思い出した。
 本当は何か知っていて隠しているのかしら?でも、話さない
という事は理由があるはずだわ。
 内心そのようなことを考えていると、小さな手が海若の額の
布を交換した。
 井戸から水を汲んできた風香だった。
 この子はよくがんばってるわね。本当に一生懸命にやってる
わ。手伝ってあげられればいいのだけど。
 屋敷に戻るまでは、海若に対する復讐が渦巻いていたが、毒
と高熱に苦しむ本人を目の前にすると、その気持ちもかなり揺
らいでいた。
 心のどこかでは命を救われた事を感謝しているのだろうし、
復讐しても意味はないのではないかという現実的な考えもこみ
上げつつあった。
 それでも、手伝いを申し出るのもばつが悪すぎて、蒼色の瞳
を落ち着かなく動かしていた時だった。
 廊下の方で足音が聞こえたかと思うと、ジルベールが湯気の
立つお碗を手にして、足早に入ってきた。
「それが解毒剤なの?」
「はい。これを飲ませればすぐに直ります」
「だったら風香に渡してあげて。ずっと看病しているその子が
 飲ませてあげるべきだわ」
 小さくうなづいて、ジルベールは未来から来た少女にお碗を
手渡した。
 不思議な香りのするそれを受け取って、風香はきょとんとし
たようだったが、すぐにその意味を悟る。
「これ、解毒剤ですよね?使わせてもらいます」
 確かめるように言うと、そのまま海若の口許にお碗を当てて
ゆっくりと飲ませ始める。
 毒が入っているのではないかと疑う槍太が飛び出そうとした
が、隣にいた隼人が何も言わずに腕を掴んで引き止める。  
「これで、本当に大丈夫なんですか?」
 時間をかけて全て飲ませるのと同時に、風香は心の中に浮か
んだ疑問をそのまま口にしていた。
「ジルベールさんを信じたいのは山々なんですけど、言葉が通
 じないんじゃ何をされてもわからないし。でも、わたしはこ
 れしか方法は無かったと思います」  
「少なくともおれはその客人に悪意は感じられなかったな」
「隼人さん。ありがとうございます」
 思いがけない言葉に、風香は思わず深々と頭を下げていた。
 自分の判断だけで海若に<解毒剤>を飲ませてしまったもの
の、正しいことをしたのか自信が無かったのである。
「まあ、隼人さんが言うなら、オレも信じるぜ。でも、こいつ
 らは島から逃げようとしたんだ。それだけは忘れるなよ」
「うん。でも……たぶん、大丈夫」
 何が<大丈夫>なのかよくわからなかったが、風香はそう言
って少しだけ笑った。
 海若はきっと助かる。
 なぜかそう確信していたせいもあったからだった。
                            
 穏やかな朝の日差しが差し込んできた。
 部屋の片隅で壁に寄りかかって仮眠していた風香だったが、
誰かの手が肩に触れて目が覚めた。
「ん?」
 寝惚けたまま顔を上げ、猫のように目をこすったりしていた
ものの、目の前にいる人物に気づくのと同時に。
 一気に目が覚めた。
 さっきまで熱にうなされて苦しんでいたはずの海若が、いつ
ものにこやかな笑みを浮かべていたからである。
「か、海若さん!」
「一晩中苦労かけたな。もう大丈夫だ。槍太から聞いたぜ。お
 前さんが熱心に看病してくれたそうだな」
「わ、わたしはただそれぐらいしかできなかったから……本当
 に凄いのはジルベールさんです。あの人が、解毒剤を作って
 くれたんです」
「わかってる。正直言って驚いたぜ。あの朴念仁が俺を助けて
 くれるなんて思わなかったからな」
 そう言いながら、海若は無造作に風香の横に座った。
 その横顔にいつもの覇気と自信が戻っている事に気づいて、
風香は心の底から安心する。
「まあ、狙いはだいたいわかる。下心無しに助けるとは思えな
 いからな。それより、飯はどうした?」
「え?まだですけど」
「今準備してるはずだから食べてきたらどうだ?俺はこの通り
 元気になったし、お前さんはゆっくりしてていいぜ」
「はい。わかりました」
 小さくうなづいて、白拍子の少女は立ち上がると、そのまま
部屋から出て行った。
 それを笑って見送った海若だったが、すぐに真剣な表情に戻
って考え込む。
 しかし、よりによって一番思い出したくない事を思い出して
しまったな。俺は、なんであの島に行ったんだ?そこでいった
い何があったんだ?
 高熱と毒にうなされて生死の境を彷徨っていた時、海若はず
っと夢を見ていた。
 すでに忘れていたはずの昔の記憶だったが、その事を思い出
すと、耐えられない程心が痛んだ。
 俺は大事な事を忘れたまま、この島に流れ着いたんだ。そこ
で先代に拾われて、結局海賊の頭領になった。違う。俺には他
にしなければいけない事があるはずだ。          
 それが、心の痛みの中心にあるようだった。
 あの夢を見るまではここでの生活が全てだと信じていたが、
今では儚い幻のようにしか思えなかった。
 見つけないといけない。俺が本当にすべきことを。でも、俺
がいなくなったらこの島はどうなる?それに、客人は……。
 壁に寄りかかったまま、思い悩み続けていた時だった。
「海若、話がある」
 音もなく、副首領の隼人が部屋の中に入ってきた。
 すでに目を覚ました直後を言葉は交わしているので、目の前
に座るとごく実務的な口調で話を切り出す。
「昨夜の事件の余波が広がっている。今はまだお前が元気にな
 ったことは屋敷内の人間しか知らないが、知れ渡った時にま
 た騒ぎになる。甲龍は死ぬ間際に<もし毒が効かなかったら
 <化け物>だと言い放ってるからな」
 海若は何も言わなかった。
 目を閉じ、腕を組んで何かを考えていたからである。
「とにかく、島はおれがなんとかまとめる。それまで、お前は
 ここを動くな。客人も……」
「隼人。心遣いはありがたいけど、俺は思う通りにさせてさせ
 てもらうぜ」
 突然、海若が目を開いたかと思うと、有無を言わせぬ口調で
言い切ったのはその時だった。
「俺にはやらなければならない事がある。それには……いや、
 その前に風香と客人たちをここに呼んできてくれ」
「何がやりたいんだ?」
「とても大事な話だ。全員集めたら話す」
 首領の言葉はそれだけだった。
 とりつくしまもないので、隼人は珍しく不満を表に出しなが
ら部屋から出て行く。
 賽は投げられたな。まずは風香たちにどう話すかだ。信じて
くれればいいんだがな。
 足音が消えるのと同時に、海若は顎に手をやって思った。
 それ以前に、俺自身も肝心なところは思い出していない。何
か大事なことを忘れているはずだ。それを確かめるためにも、
俺は行かなくてはならない。あの島に。
 障子越しに差し込んでくる光が弱まった。
 雲が多いのか、強くなったかと思うとすぐに元に戻る。
 沈黙の中で、そんな光景を眺めていた時だった。
 今度は複数の足音が聞こえてきたかと思うと、隼人を先頭に
風香・槍太・エリアノール・ジルベールが一度に部屋の中に入
ってきた。
 食事中だった風香はとにかく、微妙な立場にあるエリアノー
ルは戸惑いを隠せないようだった。
「まずは座ってくれ。大事な話がある」
 最初はこの国の言葉で、続いて故郷の言葉で呼びかけて全員
を座らせると、海若は淡々と話を切り出した。
「まずは、死ぬ間際に甲龍が言い残したことだが、奴の言葉は
 間違っていない。俺はすでに百年以上生きてきた<化け物>
 だからな」
 二つの言葉による告白は、二つの衝撃と波紋を投げかけた。
 風香は口許を手で抑えて呆然となり、槍太も隼人も二の句を
つなげなかったからである。
 先に甲龍から話を聞かされていたエリアノールたちは驚かな
かったものの、本人が認めた事に衝撃を受けていた。
「俺が生まれたのはおそらく、百年以上前のことだった。俺は
 親と同じ漁師になったが、やがて<大事なこと>があって、
 故郷を離れた」
「大事なこと?」
「ああ。残念ながら、その当たりは今も思い出せない。とにか
 く、俺が向かったのは<仙樹>のある島だった。仙樹という
 のは、とてつもなく巨大な林檎の木だった」
 最初はこの国の言葉で、すぐに故郷の言葉でも同じことを繰
り返した海若だったが、言い終わるよりも早く。
 エリアノールがはっきりとわかるほど顔色を変えた。
 風香などが驚くような大声で身を乗り出す。
「待って!仙樹というのが林檎の木なのは本当なの!?
「あ、ああ。ただ、でかい木だぜ。庭先に植えられているよう
 な小さなやつじゃないぜ」
「だったら間違いないわ。あたしたちが探している<楽園>に
 は大きな林檎の木があるはずなのよ。原罪の元となったとて
 も大事な木が……」
 フランス語でつぶやくエリアノールを、ジルベールを除く全
ての人たちは呆気にとられたように見つめるしかなかった。
 それでも、令嬢はすぐに問いかける。
「その島だけど、どこにあるか覚えてる?」
「それは後から話そうと思ってたけど、覚えてない。それにあ
 の島は大津波の直撃を受けてるから無事とは思えないぜ」 
「大津波!?どういうこと!?
「だ、だからそう迫るなって。俺が思い出したのは、島で何か
 あってから大津波で流されて、この島に来た事だけなんだか
 らな。今まで島のことも忘れていたんだぜ」
「でも、まだあるのならあたしは行くわ。その為に東の果てま
 で来たんだから」
 ようやく、エリアノールが海若から離れた。
 ジルベールは相変わらず仏頂面だったが、言葉の意味の分か
らない風香たちはようやく大きな息をつく。   
「ったく、妙なことになったな。つまり、お前さんはあの島に
 行きたいんだな?だったら、協力してやってもいいぜ」
「本当に!?
「ああ。こんな騒ぎになった以上、島にはいられないからな。
 ……風香に槍太。俺はこいつらを昔俺がいた島に案内する。
 ついてくる気はあるか?」
 突然話の矛先が向いてきて、ただ戸惑っていた二人はお互い
顔を見合わせた。
 すぐに風香が確かめるように聞き直す。
「どういうことなんですか?この島には戻るんですか?」
「少なくとも、俺は戻らない。この島を統率するのはもう無理
 だからな。もし残るんだったら、隼人が面倒をみてくれる」
「オレは兄貴と一緒に行くぜ。まあ、海賊稼業も悪くねえけど
 オレの<家族>は今、海若の兄貴しかいないんだ。オレはつ
 いていく」
「わたしは……」
 今後の運命を決めかねない大きな選択が突然目の前に現われ
て、白拍子の姿をした少女は戸惑いと驚きに翻弄されていた。
 もしこの島に残れば、おそらく残りの人生をここで過ごすこ
とになり、平凡ながらも安寧な暮らしが約束されるだろうが、
その代わり<現代>に戻る事は不可能だろう。
 もし海若たちについていけば、今まで以上に困難な旅が待ち
受けていても、<現代>に戻る方法を探せるはずだった。
 ふと気がつくと、部屋内の人たちの視線が集まっていた。
 決断を迫られていることに気づいて、風香は胸の鼓動が高ま
るのを感じたが、顔を上げると一気にこう言った。     
「わたしは、海若さんたちについていきます。元の世界に戻る
 方法を探したいんです。お願い、できますか?」
「わかった。これで決まりだな。隼人、悪いが後はお前に任せ
 る。みんな俺より言うことを聞くはずだ」
 隼人は無言のままうなづいただけだった。
 すでに覚悟はしていたのだろう。
 驚きが通り過ぎると、無口で頼れる副首領に戻っていた。
「島を出るのは準備して、夜になってからだな。それまで俺は
 ずっとこの部屋にいる。島の連中に、生きていることを知ら
 れたくないからな」
「なんでですか?」
「もし生きてることがばれたら、本当に<化け物>扱いされか
 ねないからな。俺は死んだことにして、風香たちだけが島か
 らこっそり出たことにする。それなら隼人にも迷惑がかから
 ないしな」   
「脱出用の船はおれが用意させる。娘さんと客人もここに残っ
 て夜を待つといい」
「頼む」
 海若の心からの言葉に、副首領はやはり黙ってうなづくと、
立ち上がって部屋から出て行った。
 それを見送りながら風香は、自分が大きな何かを選んだこと
に戸惑いを隠せないでいるのだった。