第17話 流されて
                            
 時折、かすかな風だけが吹き抜ける静かな夜だった。
 岩がむき出しになった壁に寄りかかって、浅い眠りについて
いたエリアノールだったが、かすかな物音に目を開けた。
 ゆっくりと、当たりを見回していたが、すぐに格子越しに影
が動いたのに気づいた。
「誰なの?」
 とっさに、故郷の言葉で呼びかける。
 それでジルベールも起きたようだったが、影から返ってきた
言葉は意外にも、大陸の言葉によるものだった。
「静かに。大事な話がある」
「あなたは……誰なの?海若ではないわね」
「俺は副首領の甲龍だ。あんたたちに大事な話がある」
「甲龍?確か、海若と対立する……」
「ああそうだ。しかし、そんな事はどうでもいい。あんたたち
 自分の置かれている立場に気づいてないみたいだからな」
「どういうこと?」
 心の奥では話を聞いてはいけないと思いながらも、エリアノ
ールは身を乗り出していた。
 諫めるべき立場のジルベールは覚めた目で、副首領をじっと
見据えている。
「あんたたちは海若に騙されるんだ。牢屋に閉じ込められたの
 も俺のような人間が騒いだからということになっているが、
 本当は少し違う。騒いだのは本当だが、あんたたちを<鬼>
 に仕立てたのは海若自身だからな」
 見えない衝撃波が、狭い牢屋を貫いた。
 エリアノールたちが牢屋に入れられたのは、人の生き血を吸
う鬼だというあらぬ疑いをかけられたからだった。
 しかし、それを仕組んだのが海若だとすれば……。
「なんでそんな事をしたかって?海若自身が危ない立場にある
 からな。なにせ、奴は……化け物なんだからな」
「化け物?」
 西方から来た二人が驚いたように甲龍の顔を見た。
 計算通りに食いついてきたことに、副首領は笑みさえ浮かべ
ながら言葉を続ける。
「ああ。この事を知ってるのは俺だけだぜ。なんたって、ここ
 に流れ着いた海若にこの国の言葉を教えたのは俺だからな。
 その時に気づいたんだ」
「いったい、どうやって?」
「なに、簡単なことさ。奴に大陸のどこで生まれたか聞いてみ
 たら聞いたことも無い地名ばかり出てきたからな。後で調べ
 てみたら全て、大宋国の地名だったんだ」
 すぐにその意味に気づいたのは、ジルベールだけだった。
 色の濃い前髪をかき上げると、こう言ったからである。
「大宋国は現在、大陸の南で滅亡寸前になっている。しかし、
 海若の言う地名は全盛期の大宋国の地名だった、というわけ
 だな?つまり、海若は百年以上生きている計算になる……」
「ジ、ジルベール。それは……本当なの?」
「この男の言葉に嘘が無ければ間違いありません。百年以上生
 きていて、あの姿なら<化け物>以外考えられません」
「海若が、<化け物>……」
 ぽつりとつぶやいたエリアノールだったが、あまりのおぞま
しさに小さく肩を震わせた。
 そんな人間に閉じ込められている自分が惨めだった。
「これで俺の言いたいことはわかっただろう?海若はそういう
 奴なんだ。人の良さそうな顔をして島の人間を欺いているっ
 てわけだ。だから……」
「私たちを牢屋から脱出させてまず面子を潰し、それから海若
 を島から追放する、という手筈だな」
 先を読んでジルベールがつぶやいたのはその時だった。
 相変わらず感情の無い声だったが、甲龍は我が意を得たりと
いう表情で話を続ける。
「そういうことだ。お前さんたちだって、いつまでもこんな辛
 気臭い場所にいられないだろ?」
「でも、風香とは約束しているのよ。あの子が言葉を覚えるま
 では我慢するって。あと数日もすれば出られるわ」
「風香……あのちっちゃい白拍子のことか。あいつも騙されて
 るんだろう。海若の言うことはなんでも聞くみたいだしな。
 そもそもお前さんたちも危ないはずだ」
「どういうこと?」
「あの白拍子が言葉を覚える前にお前さんたちを<鬼>として
 地頭の武藤に引き渡すつもりだからだ。武藤っていうのは、
 お前さんたちを牢屋に入れた奴だ。安全を買う為に海若は手
 を打たないといけない状態なんだ」
 熱心に甲龍は話していたが、エリアノールはその言葉の端々
に不自然なものを感じていた。
 この男は自分たちを罠に陥れようとしている。
 直感はそう警告していたが、海若が<化け物>という話を聞
かされた後では、疑うのもなぜかためらわれた。
 でも、あたしが気づいているなら、ジルベールも気づいてい
るはず。そろそろ何か言うはず……。
「エリアノール様」
 そんな主人の考えを読んだかのように、従者の青年が大陸の
言葉で呼びかけてきたのはその時だった。
「この男の言葉を信じるべきだと思います。私には嘘をついて
 いるようには思えません」
「……!?ジルベール、本気なの?」
「はい。私たちはこの前話した<大きな流れ>に流されきった
 わけではありません。ここは従うべきです」
「それが……道理だとでもいうの?」
「はい。その先に、何かが待っているはずです」
 自信に満ちた口調でジルベールは断定したが、甲龍にも分か
る大陸の言葉で決断をうながしている点が、エリアノールには
気になった。
 まるで、目の前の相手に聞かせているような感じがしたから
である。
 もしかして、何かあるのかしら?でも、風香と約束している
のにそんな事はできないわ。
「裏切り者はいつか斬られる。それが道理です。ここは表面だ
 けでも従うべきです」
 不意に、ジルベールが故郷の言葉でそう囁いたのでエリアノ
ールは驚きを隠しきれずに見つめ返した。
 しかし、当の本人は甲龍にも分かる言葉で「私はこの男に賭
けてもいいと思います」とつぶやいただけだった。
「あなたがそこまで言うならあたしも反対しないわ。で、具体
 的にはどうやって脱出するの?」
「明日、今日と同じようにここの見張りを俺が信頼する奴と交
 代させる。その上で、お前さんたちを港まで連れていく。船
 を用意させるから、それで脱出するといい」
「でも、風香は……」
「あの白拍子にも事情を話す。すぐには無理でも追いつけるよ
 うに手は打つ。心配しなくてもいい」
「そこまで言うならあなたに任せるわ。……最後に確かめたい
 のだけど」
 突然エリアノールが改まったように言ったので、甲龍は内心
驚いたようだった。
 しかし、すぐに平静を取り戻して話の続きをうながす。
「さっきあなたは海若が化け物ではないかと言ってたわね。そ
 れは本当の事なの?」
「ああ。知っているのは俺だけだが、大陸の地名の話は実際に
 この耳で聞いたんだ。あいつは百年以上生きているに違いな
 いぜ」
「そう。ありがとう」
 エリアノールが金色の髪を揺らしてうなづいてみせると、甲
龍は「また明日迎えに来るぜ」と言い残して闇の奥へと消えて
行った。
 それを見送って、西方の貴族令嬢は自分たちはどこまで流さ
れていくのだろうと内心思っているのだった。