第11話 白拍子・風香
                            
 その後、風香は本人が思っている以上に順調に回復した。
 しばらくは布団の中で大人しくしていたものの、二日も経つ
と自由に動けるようになったからである。
 海若たちと別れてから倒れるまでの悪夢を思えば、驚くほど
だった。
「あんたは誰かに守られてるのかもしれないねえ」
 ぞんざいながらも、親しみの込められたいつもの声で京華が
言ったのは、ある日の夕方のことだった。
 久しぶりに<商売>に行って戻ってきてみると、現代から来
た少女は軒下に腰かけて、沈む夕日を眺めていたのである。
「なんていうか、不思議な存在感を感じるのよね。これでもい
 ろんな人間を見てきたつもりなんだけど、あんたは特別なよ
 うな気がするね」
「遠い時代から来たからじゃないんですか?髪だってこんなに
 短いし」
 いたずらっぽく笑って、小袖姿の風香は立ち上がった。
 きれいに切り揃えた髪がふわりと揺れ、夕光に反射する。
「そんなんじゃないんだ。もっと根源的なものなんだから。そ
 れより、今様はどれぐらい歌える?」
「え?数曲ならなんとか……。自然と覚えちゃいました」
「思った通りだね。大事なことを教えるから中に入りな」
 突然、有無を言わさない声で京華が言ったので、目を丸くし
た風香だったが、何も言わずに従った。
 家の中に入ると、白拍子姿の遊女が白い衣を投げてよこした
ので、慌てて受け止める。
「これは?」
「いいから着てみな。これもだ」
 きょとんとしていると、今度は緋色の袴が飛んできた。
 驚きながら両手で抱えた風香だったが、上下を組み合わせて
ようやく衣裳の正体に気づく。
「京華さん、これって白拍子の衣裳じゃないんですか?」
「そうだ。舞を覚えるのに形から入らないといけないからね」
「え?もしかして、教えるっていうのは……」
「今から暇を見て、あたいが知ってる舞を全て教える。舞と今
 様を覚えれば白拍子として生きていけるだろう?」
 相変わらずぞんざいな京華の言葉に、風香は全てを悟って耳
まで真っ赤になった。
 京華の商売は……。
「馬鹿、それは教えないよ。だいたいあんたに欲情する男なん
 て太宰府にはいないよ。色々な意味で小さいし」
「そんな。わたしだって<女の子>だから……でも……」
「後の事は自分で考えな。ただ、今様と舞さえ完璧にこなせば
 自然と客はつく。そうすれば、食っていける。それを教える
 んだったら文句は無いだろう?」
 衣裳を手にしたまま、風香はこくりとうなづいた。
 海若も言っていたようにまずは全力で<生きる>ことが、こ
の時代に馴染む唯一の方法であることに気づいていた。
 舞踊なんて本当に久しぶりね。小さい時に少しやってたけど
役に立つかしら?でも、覚えないと生きていけないわ。
「とにかく、とっとと着替えな。大きさは合ってるはずだ」
「はい。……本当に、色々済みません」
 京華は不敵な微笑を浮かべただけで何も言わなかった。
 それに対して風香も無邪気な笑顔を見せると、生まれて初め
て白拍子の衣裳に袖を通した。
 飾り紐の付いた白い水干、緋色の短めの袴、そして足袋と草
履という当時としては少し変わった姿だったが、風香のどこか
中性的な魅力を引き立てるには十分だった。
「袴、短くないかい?童子のつもりで短くしたけど」
 膝が隠れるのを確かめて、京華が心配そうな声で訊いた。
「平気です。もう少し裾上げした方が気持ちいいかも」
「腿まで見せるのかい?」
「はい。現代ではこれでも長いくらいです。ちょっと道具貸し
 てもらえますか?」
 京華とは対照的に、気持ちのいい衣裳に身を包んだ風香の心
はすっかり軽くなっていた。
 一度袴を脱ぐと、慣れた手つきで裾上げしたからである。
 コスプレ衣裳を手作りするのが得意な少女にとってみれば、
簡単なことだった。
「あんたって意外と器用なんだね。それでも食っていけるよ」
「これは趣味ですから。……こんな感じでどうですか?」
 袴を履き直して、風香が立ち上がった。
 色白で細い足が膝上まで見えていたが、小柄でかわいらしい
少女にふさわしく見えるのが不思議だった。
「童子のような娘なんだねえ。まあいい。みっちり教えてあげ
 るから覚えるんだよ」
「はい」
 風香が大きくうなづいたのを見て、京華は自分の衣裳を翻し
て再び外に出た。
 すでに日は大きく傾いていたが、まだ暗くはなっておらず、
舞の練習をするのには十分なほどだった。
「ところで、あんた舞はやったことがあるの?」
「小さい時に少しだけやってました。役に立つかどうか……」
「少しでもやってれば見どころありだね。しっかりやるんだ」
 その言葉を合図に、練習は始まった。
 扇を渡され、京華に合わせてただひたすら舞う。
 体を動かすのは苦手ではない風香だったが、<先生>はかな
りの踊り手なのでついていくのも難しかった。
 遅れそうになって慌てて次の動作に移ると手が左右逆に出た
り、ゆるやかに回ろうとして転びそうになったり……。
 傍から見ていると吹き出しそうなほど滑稽な舞だったが、風
香の表情は真剣そのものだった。
「ちょっと休むかい?病み上がりだからね」
 表情を変えずに京華が舞を止めたのは、差し込む夕光が少し
弱まった頃のことだった。
「ごめんなさい。全然上手く舞えなくて」
「何言ってるんだい。最初は誰でもそうなるよ。むしろ、ここ
 まであたいについてきた事に感心するね」
「そうですか?」
「筋は悪くないね。少なくとも、そこであたいたちを見ている
 男に比べればはるかにね」
 皮肉たっぷりの遊女の言葉に、風香は初めて猟師の重昌が少
し離れたところにいるのに気づいた。
 目が合うと、気恥ずかしそうに歩み寄って来る。     
「済まん。そんな気は無かったんだ。ただ、あんたらが熱心だ
 ったからな。それより、もう体は大丈夫なのか?」
「はい。もう平気です」
「大したものだ。ほんの数日前まで今にも死にそうだったって
 いうのにな。本当に、天女か何かではないのか?」
「天女がこんなにちっちゃくて舞が下手なわけがないだろ?教
 える方のも身にもなって欲しいよ」
 言葉はひどかったが、京華は珍しく商売抜きで笑っていた。
 それなりの付き合いのある重昌でさえ、見たことのない本当
の笑顔だった。
「さてと、まだ日が沈むまで少しあるね。もう少しいくよ。夕
 餉はその後だ。重昌、あんたは少し離れてて」
「あ、ああ」
 風香という少女が膝まであらわな袴を身に付けている事に内
心、かなり驚いていた猟師だったが、慌てて少し下がった。
「とにかく今はあたいの舞についてくればいい。しばらくした
 ら今様を歌いながらでも舞えるようになるから」
「舞いながら……歌うんですか?」
「それが白拍子だからさ」
 げんなりするのもかまわず、京華が再び舞い始めたので、風
香はすぐにそれに続いた。
 すでに一度やったものなので、さっきよりは体がまともに動
くのが救いだった。
 一方重昌は居心地の悪いものを感じて、すぐに立ち去ろうと
したものの、風が吹いたような気がして足を止めた。
 今日は朝から風はほとんど無かったはずだったが……。
 なんだ?京華たちの方から吹いてくるのか?変だな。こんな
風初めてだな。
 職業柄空気の動きには極めて敏感な重昌だったが、その風は
明らかに自然のものではなかった。
 それでも、思わず目を閉じ全身で受け止めたくなる心地よさ
さえ感じられるものだった。
 舞いが風を呼んでいるのか?まさかな。幾ら京華が上手くて
もそこまでは……いや、違う。これは風香から吹いてる。
 頭を掻きながら立ち去ろうとして突然心に浮かんだ結論に、
猟師は再び足が止まった。
 振り向いてみると、自分が助けた少女は下手ながらも真剣な
表情でひたすら舞っていた。
 どうなってるんだ?風を呼びながら舞うなんて。やっぱり、
天女か何かじゃないのか?
 風香の横で鮮やかに舞いながらも、京華も同じことに気づい
ていた。
 間違いないね。この子は只者じゃない。大きな何かを持って
ここに来たんだ。だったらなおさら教えてやらないといけない
ね。生きていく方法も知らないんだから。
 自分の持つ舞の技術を簡単に人に教える程お人好しでは無い
京華だったが、この時ばかりは使命感のようなものに駆られて
いた。
 相手が下手な舞でも風を呼び込むなら尚更だった。
 きっとこの子は何かをやり遂げる。その時、あたいが少しで
も役に立っていればそれでいいんだ。だから、ちゃんと覚えて
ほしいものだね。
 口には出さないものの、そう思っているのだった。