第10話 遊女の京華
                            
 猟師の重昌が太宰府前の市から戻ってきた時には、夏の長い
日もすっかり暮れようとしていた。
 そのまま、小さな集落の外れにある自分の家に入ろうとした
ものの、思い直して隣の家に向かう。
 明かり取りの窓から光が漏れているのを確かめ、戸口の前に
立って呼びかける。
「まだ起きてるか?俺だ。入っていいか?」
 返ってきたのは面倒くさげな女性の声だけだった。
 それでも重昌は、勝手を知った様子で戸を引くと、中に入っ
てゆく。
 返事をした女性……京華はろうそくの明かりの下で、何かを
繕っているところだった。
 歳は二十代半ばぐらいで、重昌より十歳ほど若かったが、わ
ずかな明かりでも窺える整った目鼻だちが印象的だった。
「まだ目を覚まさないのか?」
「ああ。もう二日になるのにね」
「済まない。俺が狩りの途中で見つけたばかりに」
「あんたが謝ることはないんだよ。当然の事をしたんだから。
 ほら、担ぎ込まれてきた時には今にも死にそうだったけど、
 だいぶ顔色も良くなったじゃない」
 顔に似合わない、ぞんざいな口調で京華は言うと手を休めて
床の方に目を向けた。
 そこには、重昌が小さな谷で見つけた小袖姿の少女……風香
が眠っていた。
「そうだな。あんたがいたんで助かったよ。俺は男やもめで小
 娘の世話なんてしたことがないからな。しかし、<商売>は
 上がったりだな」
「仕方ないさ。目の前で小娘に死なれるよりはましだからね」
 小さな家にただ一人暮らす京華の<職業>は遊女だった。
 普段は太宰府周辺を根城にしていたが、女房と死別した隣家
の重昌も<客>としてたまに来ることがあった。
「でも、なんでこの子は谷で倒れてたんだろうねえ。この辺り
 では見かけない顔だし、童子みたいに髪は短いし。しかも不
 思議なものばかり持っていたしね」
「物の怪ではないだろう。そういや、今日太宰府で妙な噂を聞
 いたぜ。とある海賊が脱獄に成功したが、その時突然現れた
 小娘……天女って噂もあったな……が手助けしたらしいぜ」
「天女?そんなのがいるならあたいたちも助けて欲しいものだ
 ねえ。あたいはこの子の世話で精一杯だよ」
 口ではそう言いながらも、京華は細い指で眠ったままの風香
の頬をそっと撫でた。
 不思議な少女だったが、その寝顔は京華の母性をくすぐるも
のがあった。
「本当に済まない。明日は俺が付き添うからあんたは休んでて
 いい。……また来る」
 居心地が悪くなったのだろう。
 ぼそぼそ言いながら、重昌が立ち上がった時だった。
 わずかに身じろぎして、風香が目を覚ました。
 昼寝を終えたばかりの子猫のような表情で当たりを見回して
いたが、すぐに京華と目が合う。
「ここは……?そして、あなたは?」
「気がついたようだね。あんたは助かったんだよ。そこにいる
 お節介好きが運んできてくれたお蔭でね」
「……!?目を覚ましたのか!?
「わたしは……谷みたいなところで倒れて、それから……あ!
 海若さんたちとはぐれてたんだわ!わたし……」
 京華も驚くような大声で叫びながら飛び起きようとした風香
だったが、全身に痛みが走って悲鳴を上げそうになった。
「あんたはまだ寝てないと駄目。まだ傷は塞がってないんだか
 ら。でも、話はできるわね」
「はい。あの、あなたたちは……」
「あたいは京華っていう遊女さ。こっちにいるのが重昌。狩り
 の最中に倒れてるあんたを見つけたんだ」
「まずは良かった。ここに運んだ時には虫の息だったからな。
 もう少しで手遅れになるところだった」
 心底安堵したようないかつい男の言葉に、もう一度横になっ
た風香は自分が危ういところで助かったのを知った。
 本当に、死にかけたのね。わたし。もし、この人が見つけて
くれなかったら今頃……。
 半分顔を隠すように粗末な掛け布団を上げた風香だったが、
突然恐怖が奔流のように流れ込んできて、全身が震えた。
 爪を立てるようにして布団を掴み、涙を流しても止まりそう
にはなかった。
「おい、どうしたんだ?急に。痛いところでもあるのか!?
「ち、違うわ……。ただ、こ、恐かったの……もう少しで死ん
 でいたと思うと……」
「落ち着け。もう大丈夫だ。後は……」
「どいてどいて。これだから男は信用できないのよ」
 体格のいい重昌を押し退けながら、京華が割り込んできたの
は風香の精神的な恐慌状態が頂点に達しかけた時だった。
 有無を言わせない力で小さな少女を布団から引きずり出すと
全身で抱きしめる。
 母性を秘めた抱擁に、風香の恐怖は急速に静まってゆく。 
「あ、あの……」
「かまわないわよ。あたいの<仕事>はこれなんだから。男っ
 ていうのはこうやって女に受け止めてもらわないと生きてい
 けないものだからね」
「優しいんですね……」
「別にあたいは優しくないさ。これしか食っていく方法はない
 んだから。でもあんたを見てると商売抜きで守ってやりたく
 なるね。つらかったんだろう?」
「はい。……もう、大丈夫です。済みません」
 ゆっくりと、京華が離れた。
 しばらくぼっとしていた風香だったが、腰を抜かしたままの
重昌が自分を見ているのに気づいて、慌てて着物を直す。
「さてと、そろそろ話してもらうかねえ。なんであんなところ
 にいたのか、どこの生まれと育ちなのか。聞かないと眠れそ
 うにないからねえ」
 啖呵を切るような口調ながらも、遊女の目は笑っていた。
 牢屋で助けてくれた時の海若の事を思い出しかけた風香だっ
たが、体を痛みを堪えながら居ずまいを正すと、噛みしめるよ
うに今までの事を話し始めたのだった。
                            
「なるほど。そんな事があったのかい……」
 少女の長い話が終わった瞬間、京華の口から漏れたのはこの
言葉だけだった。
 隣にいる重昌はあまりの不思議さに何度も目を白黒させてい
たが、この女性が驚いたようには見えなかった。
「信じて、くれるのですか?」
「あんたが嘘を言うようには見えないし、それなら辻褄は合う
 からね。しかし、海賊の海若を逃がしたのがあんただったと
 はねえ」
「わたしはただ、言われるままに手伝っただけです。……海若
 さんの事を知ってるんですか?」
「部下なら客として迎えたことはあるけど本人は全然ね。ああ
 見えても堅物なのかもね。あの頭領」
「そうですか……」
 同じ姿勢を続けていたので、足を崩しながら風香は小さく肩
を落とした。
 がっかりしたような、安心したような奇妙な気分だった。
「なんかはっきりしないわね。会いたくないのかい?」
「え?そんなはずありません。短い間でしたけど、助けてもら
 ったんですから。お礼を言わないと……」
「重昌、あんたは一度家に戻りな。この子の世話はあたいがす
 るから。あんたは朝早いんだろ?」
 唐突に風向きが変わって、風香も当の重昌も驚いた。
 それでも実直な猟師は「それもそうだな」とつぶやくと、少
女には目もくれず京華の家を後にした。
「あの、京華さん?」
「邪魔者はいなくなったし、聞かせてくれないかしらねえ。あ
 んたの本心を。あたいもどうしたらいいのかわからないし」
「……。しばらく、海若さんとは顔を合わせられません。わた
 しが身勝手な事をしたばかりに……」
「そんな事だろうと思ったよ。まずは体を直しな。後の事はあ
 たいが何とかしてやるから」
「迷惑はかけられません。体力が回復したら一人でも大丈夫で
 す。お世話になりたいのは山々ですけど」
「あんた一人で何ができるっていうんだい。海若にも言われた
 んじゃないかい?甘いって」
 京華の言葉は、風香の心に隠れていた傷を蘇らせるのに十分
なものだった。
 身勝手な行動で命を落としかけ、ここに担ぎ込まれた事を忘
れるわけにはいかなかった。
「ごめんなさい。本当に。わたしって何も学ばないかも……」
「気にする事はないさ。さ、横になってな。簡単に何か作って
 やるから。まずは養生するのが先」
 思った以上に優しい口調で言われて、風香は言われた通りに
もう一度横になった。
 顔を横に向けてみると、土間で火を起こしている京華の姿が
目に入ってきた。
 京華さんの言う通りね。わたしは何もできないわ。この時代
からは想像もつかない程便利な時代に生きていたから。でも、
どうしたら<生きて>いけるのかしら?
 ふと、短い間行動をともにした三人の事を思い出す。
 海若は海賊の頭領ながらも後ろめたそうに見えなかったし、
エリアノールたちも自らの目的を果たそうと必死だった。  
 みんな一生懸命なのにわたしったら……。やっぱり、顔を合
わせる事なんてできないわ。わたしは何もできないし。
 心底落ち込みながら、布団を引っ張り上げた時だった。
                            
 君が愛せし綾藺笠、落ちにけり落ちにけり、賀茂川に、川中
に、それを求むと尋ぬとせし程に、明けにけり明けにけり、さ
らさらさやけの秋の夜は                 
                            
 よく通る美しい声で、不思議な歌が聞こえてきた。
 火を起こして何かを作り始めた京華が歌っているのだった。
 これは……何かしら?この時代の歌みたいだけど、なんで京
華さんわたしに聞こえるほどの声で歌うのかしら?
 疑問は隠せないものの、同じ調子で色々な歌は続く。
 花鳥風月を歌ったもの、男と女の関係を歌ったもの、遠い京
の都を歌ったもの、どこかの風景を歌ったもの。
 いずれも心地よく耳に響くものばかりだった。
 覚えてしまいそうね。このまま。京華さんってとても声がい
いから。こうやってお客さんを楽しませているのかも。
 とりとめなく考えながら、まどろんでいた時だった。
 歌が途切れたかと思うと、暖かな湯気の立つお碗を持って京
華が戻ってきた。
「これしか無いけど、自分で食べられるかい?」
「はい。……お粥、ですか?」
 面倒見のいい遊女は無言のままうなづくと、風香にお碗を差
し出した。
 お粥には違いなかったが、米らしきものはかなり少なく、残
りは粟や稗などいわゆる雑穀だった。
 これが当時の庶民の主食だったのだが、お腹が空いていた風
香は質問することなく箸で掬って口に運ぶ。
 例えるのが難しい複雑な味に、顔をしかめそうになったもの
の、栄養が欲しかった事もあり夢中になって食べ続ける。
「ところで京華さん、さっき歌っていたのは何なのですか?」
 ようやく風香が口を開いたのは、一杯全て平らげてからの事
だった。
「あれかい?今様だよ。白拍子も知らないのかい?」
「確か、舞を得意とする人ですよね?」
「あたいが客引きする時には白拍子の姿で今様を歌うんだ。そ
 うすると、男たちが寄って来るって寸法さ」
「とても……上手でした。思わず聞き惚れてしまいました」 
「ありがと。これからも暇を見て歌ってあげるよ。よく聞いて
 覚えることだね」
 碗を片づけた京華の言葉には、明らかに含みがあった。
 しかし、腹を満たしてようやく落ち着いた風香は気にかける
ことなく横になると、すぐに寝息を立て始める。
 それを見た京華は珍しく微笑すると、ほったらかしになって
いた繕い物を再び始めたのだった。