第8話 戦いと放浪
                            
 冷たい空気が頬に当たって、風香は目を覚めました。
 自分の居場所を確かめるように当たりを見回したものの、す
ぐに七百年も昔に飛ばされた事を思い出す。
 やっぱり夢じゃなかったのね。本当にわたし、過去の世界に
来ているのね。
 洞穴の入口から、ひんやりとした夜気が流れ込んでくるので
膝を抱えて、風香は小さく息を吐きだした。
 雨と泥にまみれた着物は気持ち悪かったが、脱ぐわけにもい
かなかった。
 寒い……。初夏のはずなのにこんなに冷え込むなんて。本当
に風邪を引いてしまうわ。でも、火なんて起こせないわ。やり
方もわからないし。
 そう思いながら背中を丸めた風香だったが、帯の下に固い物
があるのに気づいて、取り出してみた。
 コスプレ衣装を整理した時にも手放さなかった、やや大きめ
のベルトポーチだった。
 外側は水と泥で薄汚れていたが、中を開いてみると携帯電話
や使い捨てカメラ、メモ帳などが無傷で入っていた。
 よかった。<現代>とつながっているのはこれだけだから。
でも、意味なんて無いわね。持っていたとしても。カメラのフ
ラッシュは役に立ったけど。
 愛用していた携帯電話を手にして、遠い時代から流されてき
た少女は新たな寂しさが込み上げてくるのを感じていた。
 もし今までいた時代なら、携帯さえあれば助けを呼ぶ事も不
可能ではなかったはずだった。
 これからどうしたらいいのかしら?火の起こし方も知らない
のにこんな所で野宿することになるなんて。恐ろしい動物でも
来たら……。
 短い髪を揺らし、膝の上に突っ伏した風香だったが、夜気に
紛れて遠吠えのようなものが聞こえるのと同時に。
 さらになる恐怖が心を支配するのを感じた。
 今のは何かしら?野犬?それとも、狼?近くまで来てるのか
しら?もし狼だったりしたら……。
 そう思うといても立ってもいられなかった。
 杖がわりに使っていた木の枝を握りしめると、そっと洞穴か
ら顔を出したからである。
 雲間から差し込む月光で思った以上に明るかったが、シルエ
ットになって浮かび上がる森や岩場は、想像していた以上に不
気味だった。
 大丈夫……みたいね。でも、火が無くては勝てないわ。早く
夜が明けてくれれば……。
 多少ながらも安心して、奥に戻ろうとした風香だったが、視
野の隅に動物の目を見つけた瞬間。
 驚きと恐ろしさでその場に力なくへたり込んでしまった。
 握りしめていた木の枝が地面に落ちて、思った以上に大きな
音をたてる。
 い、いるわ!思った以上に近くに……!大人しそうな動物の
目じゃなかったわ。たぶん、狼……!
 震える手で木の枝を探るよりも早く、相手はゆっくりと姿を
現した。
 月光に浮かび上がってきたのは、シベリアンハスキーぐらい
の大きさで、暗い黄赤色が混じった白茶の毛並を持つ四つ足の
獣だった。
 明治期に絶滅したといわれるオスのニホンオオカミだった。
 <大神>とも言われるように、山の神として当時の人たちに
も知られていたが、その目は虚ろで、鋭い牙がむき出しの口か
らは涎がだらだらとこぼれていた。
 様子がおかしいわ。何か狂っているような感じ……。こ、こ
っちに来るわ!
 なんとか丈夫な木の枝を握りしめたものの、オオカミは焦点
の合わない目で風香を見つけると、向かってきた。
 少女は知らなかったが、普通オオカミは人を襲わない。
 しかし、狂犬病に罹ると見境無く他の生き物に噛み付き、病
原体を撒き散らし続ける。
 今目の前に現れたオオカミは、まさにその状態だった。
 駄目、立てないわ……。背中を向けたらお終いだわ。こうな
ったら、この木の枝で追い払うしか方法は無いわ。
 狂気に憑かれた山の神を前に、現代から来た少女は立ち上が
ることも出来ずに震えていた。
 勝てるとは思えなかった。
 しかし、何もしなければ噛みつかれてただの骸となるのは避
けられそうになかった。
 この枝を目の当たりに命中させれば何とかなるかも。全然自
信ないけど、それしか身を守る方法は無いわ。
<今を全力で生きるんだ>
 海若の言葉が脳裏に蘇る。
 それに勇気づけられるように風香は両手で木の枝を握り直す
と、新たな<獲物>を狙おうとするオオカミと正対する。
 雲間から月が完全に顔を出し、一段と周囲が明るくなった瞬
間だった。
 オオカミが地面を蹴って、飛びかかってきた。      
 それに対して風香はしっかりと握った木の枝の先を、思い切
り相手の眉間目掛けて突き出す。
 無我夢中だったが、直前になって吹いた風が、少女の気持ち
を後押しした。
 固い物に当たる手応えを感じるのと同時に、悲鳴のような鳴
き声が耳を貫き、オオカミは岩地に転がったからである。  
 二、三度わずかに痙攣したものの、やがて力なく目を閉じて
……再び目を開く事はなかった。
 風が、生死の境を超えた少女の周囲を吹き抜けていく。  
 わたし……勝ったのね。もし、あの攻撃が当たらなかったら
死んだのはわたしの方だった……。
 魂を抜かれたような表情で呆然としていた風香の心に、この
ような思いが浮かんできたのは長い静寂の末のことだった。
 手から丈夫な木の枝が滑り落ちて、乾いた音をたてる。
 よくわからないけれど、このオオカミも必死だったわ。でも
わたしも生きたかったらこうするしかなかった。これしか、方
法は無かったのよ。
 今日何度目かの涙がこみ上げてきて、風香は手で拭った。
 なぜかはわからなかったが、まぐれとはいえ動物の命を奪っ
た事と、そうでもしなければ生きられなかった自分に対する悲
しみだったのかもしれない。
 明るく照らし出す月光と、穏やかに吹く風の中で、風香は落
ち着きを取り戻すまで、ただ泣き続けているのだった。
                            
 翌朝。
 風香はひどい悪寒を感じて目が覚めた。
 オオカミと戦った後、洞穴に戻ってもう一度眠ったものの、
夜明け前の冷え込みが濡れた着物姿だった少女の体温を奪い去
ったのである。                     
 立とうとしても、目の前がぼんやりして力なくへたり込んで
しまうほど、意識は混濁していた。
 今度こそ、もう駄目だわ……。ひどい熱があるみたい。
 壁に寄りかかって、風香は絶望の淵に沈みかけていた。
 目を閉じると現代にいた時の思い出や海若たちと行動してい
た時の事、そしてオオカミ相手に木の枝を叩きつけた時の事が
脈絡も無く浮かんできて、さらに少女を苦しめる。
 このままここにいれば、誰か見つけてくれるかしら?そんな
に人里から離れてないはずだし、猟師が通るかも。でも、目印
になりそうなものも無いわ。
 このままでは、誰かが見つける前に飢え死にするか病死する
かしかなかった。
 意味不明な妄想すらも飛び交う心を鎮めながら、風香は杖代
わりの木の枝を頼りに立ち上がった。
 体重のほとんどを預けながらも、ゆっくりと洞穴から出る。
 すぐに、狂犬病に罹っていたオオカミの死体に気づく。
 まだ腐敗は始まっていなかったが、あと半日もすれば近寄る
事も出来なくなるはずだった。
 ごめんなさい。わたしも生きたかったの。
 ごく自然に手を合わせて、命懸けで生きる事の厳しさを教え
てくれたオオカミに祈ると、崖沿いに歩いていく。
 木の枝だけが頼りなのでいつもの半分以下の歩幅でしか進め
なかったが、立ち止まる事はできなかった。
 頭の中では相変わらず奇妙な考えや空想が浮かんでは消えて
いたが、気にしないようにしていた。
 少しずつ、日が高くなってきて日差しが強くなってきた。
 初夏というよりは空梅雨気味の季節なのだろう。
 暑さは夏そのものだった。
 どこまで歩けばいいのかしら?この崖、意外と長く続いてる
みたい。せめて、川でもあれば熱を冷ませるのに……。
 泥まみれの着物はいつしか、汗にまみれてまたも気持ち悪く
なっていたが、発熱自体は少しだけよくなっていた。
 それでも、昨夜牢屋を抜け出した時から何も食べていないこ
ともあって、今度は空腹がひどくなっていた。
 こんな姿になってお腹も空いて、熱もあって。でも誰も助け
てくれないなんて。限界、かも……。
 なおも歩き続けようとした風香だったが、崩れるようにその
場に膝をついたのは、右側にあった崖が途切れて森になった時
のことだった。
 体中の筋肉が酷使に悲鳴を上げ、昨日負った切り傷などが思
い出したように痛み、高熱と空腹が意識を朦朧とさせる。
 目を開いているはずなのに視野は薄暗く、ゆっくりと回転し
ているようにさえ思えた。
 ここまでがんばったんだから、死んでも仕方ないわ。でも、
せめて現代に戻りたかった。こんな所で野垂れ死にするなんて
思っても、みなかった……。
 太陽が背中を照りつけるのを感じながら、風香は力なくその
場にうずくまった。
 木の枝が手から離れて地面に落ちたが、その音すらも最早耳
に届かない。
 森と森の間の小さな谷で、持てる力を全て使い切った風香は
ついに意識を失ってしまったのだった。