第7話 雷雨
                            
 後ろにいた少女の姿が見当たらないのに気づいたのは、エリ
アノールだった。
 ふと思い出して振り向いてみると、ついて来る気配すらも感
じられなかったからである。
「海若、ちょっと待って。風香がいないわ」
 休憩の後、何かを振りきるかのように歩き続ける海賊の頭領
の背中に呼びかけると、従者のジルベールに目を移す。
 銀髪の青年は珍しく、後悔を表に出していた。
「ちゃんと見ていなかったのね?」
「申し訳ありません。考え事をしていて、少し気を抜いてしま
 いました」
「どうした?風香がいないのか?」
「そうよ。さっきまで後ろにいたのだけど……。戻って探す必
 要があるわね。あの子、かなり疲れてたみたいだから」
 海若の返事が無かった。
 横目で顔を見ると、形容しがたい複雑な表情で歩いてきた道
を眺めていた。
「何をしてるの?迷子になってたら心細い思いをしてるはず」
「あ、ああ。わかった。少し探してみるか」
 そう言いながらも、海若の動きは鈍かった。
 それを見て、エリアノールは両手を腰に当て声の調子を一段
と上げる。
「さっきから気になってたのだけど、風香と何かあったの?あ
 の子が疲れているのに突然歩き始めたり、人が尋ねても何も
 答えなかったり。はっきりしなさい」
「大したことじゃない。……人には誰だって言いたくないこと
 があるだろ?あんただってきったとあるはすだ」
「あたしはいつも神に許しを請うているわ。だからやましい所
 は一つとして無いわ」
 漁師を思わせる精悍な青年は何も言わなかった。
 迷っているような表情を見せながら、来た道を戻り始める。
 エリアノールたちも続いたが、海若に対する疑問は解けそう
になかった。
 何か隠しているわね。それを風香に言われてあんな態度を取
ったのは間違いないわね。ただの海賊の頭領と思っていたけれ
ど、何かありそうね。
 そのような考えもよぎったものの、風香のことが心配なので
捜索に専念する。
 しかし、かなり戻っても小さな少女の姿はどこにも見つから
なかった。
「おかしいわね。一本道だから迷うはずはないのに」
 着慣れない着物姿の上に、夏を思わせる暑さも加わって、額
に浮かんだ汗を拭いながらエリアノールはつぶやいた。
「ジルベール、どう?痕跡は見つかりそう?」
 従者の青年は小さく首を振っただけだった。
 海若もどこか不熱心に探していたが、フランス語のやりとり
に漢語で淡々と告げる。
「見つからないな。もしかすると、戻ったのかもしれないな」
「戻った?どこに?」
「あいつがいたという遠い先の時代だ。あいつは鏡の中から召
 還されたんだからな」
「そんなはずないわ。どこかではぐれたのよ」
「だったらもう見つかっていいはずだ。率直に言うなら、俺た
 ちが今いる場所は、最後に休憩した所よりかなり手前だ。言
 いたいことはわかるだろう?」
 愕然となって、エリアノールは救いを求めるようにジルベー
ルの方を見たが、返ってきたのは肯定を意味する沈黙だった。
「となると結論は一つだ。俺だってあまり言いたくないけど、
 風香はまた戻っていったんだ」
「そんな……。もっと探さないと……」
「わかってる。島に戻ったらすぐに手を打つ。幸い、この当た
 りの住民は海賊の俺たちにも好意的だ。やるだけのことはや
 る。ただ、今は時間がないんだ」
「もう少しだけ、探させて。どうしても信じられないの。あの
 子が突然戻ったなんて」
「だったら気が済むまでやるといい。ただ、早く島に戻らない
 といけないのは忘れるな」
 言うだけ言って、海若は背を向けてしまった。
 それになおも声を上げようとしたエリアノールだったが、吹
き抜ける風が湿り気を帯び始めているのに気づいた。
 顔を上げてみると、前より雲が増えておりあれほど強かった
日差しも陰り始めていた。
 天気が悪くなり始めている?だったら尚更探さないと。あの
子一人だけでは何もできないわ。
 心のどこかで、水車小屋の前で必死になって友好を確かめよ
うとした時の姿を思い出しながら、金色の髪を持つ女性は探し
続けたが、俄に雨が降り出しても。
 少女の姿は見つからないままだった。
                            
 頬に冷たいものが当たって、風香は目が覚めた。
 ぼんやりとした頭で当たりを見回し、すぐに自分がやや深い
穴の底で横になっている事に気づく。
 わたし、落っこちたのね。野うさぎを追いかけて。出られる
かしら?そんなに深くないようだけど……。
 そう思いながら、立ち上がって穴の深さを確かめる。
 さいわい、小柄な風香の胸の下ぐらいまでしか無かったが、
もう一度水滴が頭に当たって、思わず空を見上げた。
 木々の間から垣間見えるのは、不気味なまでに低く立ち込め
た雨雲だけだった。
 さっきまで晴れてたのに。急に天気が変わったのかしら?と
にかく、急いでここから出ないと。
 両手を地面にかけて、脱出を始めようとした風香だったが、
手の甲や頭にも雨粒は当たり始める。
 しかも、地面は思った以上に柔らかく、体を持ち上げようと
しても滑ってばかりだった。
 出られない……?まさか。そんなに深くないのに。とにかく
早くしないと雨がひどくなっちゃう。
 すでに小袖は土だらけになっていたが、気にすることなく少
女は穴から抜け出そうとする。
 腕が痛くなり、体力が少しずつ消耗してゆくのを感じたが、
休むわけにはいかなかった。
 駄目ね。どうしても滑っちゃう。こうなったら勢いをつけて
一気にやるしかないわ。
 このままでは埒が上がらないのに気づいて、風香はやり方を
変えた。
 降り続ける雨を気にしながらも、両手に思い切り力を込めて
体を持ち上げると、転がりながら穴の外に出たからである。 
 着物は汚れてしまったが、それを気にしなければすぐに出ら
れたことに気づいて風香は内心呆れる。
 とにかく、早く追いつかないと。海若さんたち待ってるかも
しれないし……って、道はどっちだったかしら?
 ようやく穴から出られて安心した瞬間。
 自分が置かれている状況に気づいて、風香は心の底から恐怖
と後悔が込み上げてくるのを感じた。
 うさぎを追いかけている時夢中になっていたので、どの方向
から来たのかまったく覚えていなかった。
 まずいわ。早く戻らないと迷惑かけてしまうし、それに穴の
中でずっと気絶してたみたいだったわ。かなり時間が経ってる
はず。とにかく、動かないと。
 そう思いながら一歩を踏み出した少女だったが、それを待っ
ていたかのように雨が本降りになったので慌てた。
 自分が来た方向を確かめる間もなく、適当な方向に走り始め
てしまったからである。
 雨宿りがしたかったからだったが、エリアノールなどが探し
続けている道とは正反対であることには気づいていない。
 急にひどくなった雨は、森の姿を一変させた。
 下草は俄に重くなって足に絡み、土の地面はぬかるみと化し
て転んだ風香を捕える。
 その上に、水を含んだ木の枝が垂れ下がって顔や手足などを
切りつけ、血を滲ませる。
 すぐに雨と泥、そして出血で壮絶な姿になってしまったが、
走るのをやめるわけにはいかなかった。
 背後で雷鳴が何度も轟いていたからである。
 とにかく、どこかに逃げ込まないと。でも、森の中は危険な
はず。洞窟でもあれば……!
 そう思った瞬間、足元が大きく滑って風香はまたも地面に転
がってしまった。
 泥まじりのしぶきが上がって全身に被さってきたが、同時に
右肩をむき出しになった木の根にぶつけてしまい、声にならな
い悲鳴を上げる。
 鈍い痛みが全身に広がり、雨に混じって涙がこぼれる
 それでも、風香はゆっくりと体を起こした。
 全身の泥を払うことなく立ち上がると、ゆっくりとながらも
歩き始める。
 激しい痛みで、何も考えられなかった。
 しかし、立ち止まったらそこで死ぬかもしれないという予感
だけはずっと心を支配していた。
 激しい雨と雷鳴の中を、惨めな姿になりながらも現代から来
た少女は前に進んだ。
 普通ならばどこかで倒れ、物も言わぬ死体となっていたかも
しれない。   
 しかし、途中太い木の枝を拾ったのでそれを杖がわりにしな
がらも、風香はただひたすら歩き続けた。
 たとえ転んでも、やがて立ち上がって歩を進める。
 ただひたすらそれを繰り返していた。
 一向に雨が降りやまないまま、彷徨い続けていた時のことだ
った。
 目の前が開けたかと思うと、緩やかな下り斜面と小さな崖が
視野に飛び込んできた。                 
 濡れた髪をかき上げて目を凝らしてみると、崖の一角に小さ
な洞穴があるのが見えた。
 あそこ……あそこに逃げ込めば大丈夫。もう少し……。
 薄れかけた意識をつなぎ止めるかのように考えると、動きの
よくない足で斜面を下り始める。
 木の枝を杖にしても体力が限界に近づいているので、何度も
よろけそうになる。
 視野が一瞬真っ白になり、雷鳴が耳を壊さんばかりに轟いて
も転ばなかったのは、奇跡に近かったかもしれない。
 かなりの時間をかけて、風香は斜面を下りた。
 目の前には自分の身長の十倍近くの高さがある崖が行く手を
塞いでいたが、すぐにさっきの洞穴を見つけると、逃げ込むよ
うにして中に入る。
 ようやく滝のような雨から逃れて、小柄な少女は大きな息を
安堵の涙と共に吐き出す。
 ここで雨が止むのを待つしかないわ。もう、駄目。何も考え
られない……。
 壁に寄りかかった風香だったが、安心するのと同時に。
 目を閉じてその場に横になった。
 このままでは風邪を引いてしまうかもしれない。
 そんな危惧も心のどこかにあったが、一つの<試練>を乗り
越えたと思ったのか、すぐに泥のように眠り始める。
 洞穴の外では、依然として雷雨が続いていた。