第6話 離ればなれ
                            
 風香たちが小さな水車小屋を後にしたのは、完全に夜が明け
てからのことだった。
 追手がかかる心配はまずないので、隠れて進む必要はないは
ずだったが、街道を避けて慎重に歩を進める。
「海若さん、なんでこんなところを通るんですか?」
 下草に足を取られそうになりながら、風香がきいたのは木々
の間に小さな村落が見えてきた時のことだった。
「着替えをしたとはいえ、ちょっと目立ち過ぎるからな。お前
 さんはいいとしても、異国の二人が半端じゃないんだ」
「そうですね。特に髪の色が目立ちますね」
「ああ。ただ、この調子で歩いてたら一日以上余計にかかる。
 覚悟しておけ。島に戻ったら幾らでも休めるからな」
 海若の話では、本拠地にしている島には半島を大きく回らな
いと戻れないという。
 四人が今いるのは、その半島の付け根当たりだった。
「それより、もう疲れたのか?息が上がってるな」
「え?うん。体力にはあまり、自信ないのよ」
「困ったな。まあいい、とりあえず少し休もう」
 うんざりしたような表情をした海賊の若き頭領だったが、自
分に言い聞かせるように言うと、その場に腰を下ろした。
 少し後ろを歩いていたエリアノールたちが驚いて何かをきい
てきたが、漢語で何かを言うと、多少眉をひそめて身近な木に
寄りかかる。
 やっぱりわたし、足を引っ張ってるわね。でも、しかたない
わよ。体力が無いのは本当なんだから。
 海若の隣に座り込んで、風香は大きく息を吐き出した。
 足を伸ばすと痛くて仕方なかったので、手でマッサージのよ
うな事を始める。
 夏を思わせる強い日差しが木漏れ日となって差し込み、思い
出したように微風が吹き抜けていく。
 何も言わずにただ疲れを癒していた風香だったが、ふと海若
と目が合うのと同時に。
 思い出したように尋ねた。
「ところで海若さんは大陸の出身ですよね?元は漁師だったん
 ですか?」
「ああ。魚を獲って暮らしていた。それがどうかしたのか?」
「だったら、なんで海賊になったんですか?」
 一瞬、精悍な青年は強張ったような表情を見せた。
 風香から目線を外すと、抑揚に乏しい声でつぶやく。
「仕方なかったんだ。ある時嵐に巻き込まれて、この国に流れ
 着いた。その時俺を拾ってくれたのが、前の頭領だった。た
 だそれだけだ」
「中国から日本まで流された?本当にそんな事ってあるんです
 か?だってかなり距離があるはずなのに……」
 海若が突然立ち上がったのは、その時だった。
 不機嫌を隠せない声で宣言する。
「そろそろ出発するぞ。このままではいつになっても着けない
 からな」
「え?ちょっと待って。わたし、まだ足が痛くて歩けないわ」
「そんなの知るか。先を急がないといけないんだ。我慢しろ」
 必死の抗議に対して返ってきたのは、想像以上に冷たい言葉
だけだった。
 予想もしなかった反応に風香は呆然となったが、海若は無視
して歩き始めただけだった。
 その前を、何もなかったかのようにエリアノールとジルベー
ルが通り抜けていく。
「……なにか、あったのかしら?」
 北フランスの貴族令嬢の口からつぶやきが漏れたのは、しば
らくしてからのことだった。
「風香の質問が海若を怒らせたのは間違いないところだけど、
 なぜあそこまで感情的にならないといけないのかしら?」
「よくわかりませんが、触れられたくない事に触れられたので
 しょう。かなり感情的になっていました」
「あたしも同じ考えね。でも、何で怒ったりしたのかしら?風
 香はまだ疲れているみたいなのに」
 そう言ってエリアノールは、目線を背後に向けた。
 着物姿の小さな少女は痛む足を必死になって動かしながら、
ついてきていた。
 目が合うと、何かを期待するような表情を浮かべたので、慌
てて顔を正面に向け直す。
 痛々しい光景だったが、それを指摘しても海若が聞く耳を持
たないのは間違いなかったからだった。
「ジルベール。風香に注意してて。遅れそうになったら助けて
 あげて」
 銀色の髪を持つ従者は黙ってうなづいた。
 それで安心したのか、エリアノールは歩く速さを上げる。
 風香のことは心配だったが、今は少しでも早く海若の本拠地
に着いて、これからの事を考えたかった。
                            
 前を歩く令嬢が表情を変えずに視線を外した瞬間、風香は全
身を締め上げる疲れが一段と重くなったのを感じた。
 エリアノールが自分の方を見た瞬間、現状を打破してくれる
のではないかという期待が込み上げていた。
 海若にも言葉が通じるし、なによりも外見以上に優しいとこ
ろがある女性である。
 助け船を出してくれると信じていたのであるが……。
 どうして?どうしてエリアノールさんまでわたしを無視する
の?わたし、もうほとんど歩けないのに。
 心の中で叫んだものの、前を歩く二人は振り返らない。
 それどころか、慣れない草履で歩き続けているので足全体が
痛くてたまらなかった。
 ここで歩くのを止めたらどうなるかしら?置いていかれるか
しら?でも……。
 少しずつ、歩幅が小さくなってゆく。
 前を進むエリアノールたちの姿が少しずつ遠くなり、森の小
道に紛れるように消えてゆく。
 それでも。
 風香は動かなかった。
 正確には、動く気力を完全に使い切ってしまったのである。
 もう駄目。少しだけでいいから休まなくちゃ。また歩けるよ
うになったら追いつけばいいわ。それに、エリアノールさんた
ちが気づくかもしれないし。
 力なくその場に座り込んで、小さく息を吐きだす。
 木々の間から差し込む日差しがまぶしかったが、吹き抜ける
風は穏やかで、過去の世界にいることを忘れそうになる。
 とても気持ちいいわね。風なんか、現代にいた時とまったく
違うわ。まったく汚れの無い純粋な風がこんなにいいなんて。
 さわさわと吹くそれに、短い髪を揺らしながら風香は自然と
一体化する感覚を心から味わっていた。
 目を閉じ、大きく息を吸い込むと溜まっていた疲れも消えて
いくようだった。
 そういえばわたし、アダムから<風の少女>なんて呼ばれて
たわね。こうやって風を感じていると不思議な気分になるのと
関係あるのかしら?
 何回か深呼吸した後、ゆっくりと目を開いて風香は思った。
 小さい時から<風>は好きだったけど、こんな気分になった
のは初めてね。風がわたしを<受け入れている>っていうのか
しら?よくわからないけど。
 形容しがたい感覚の意味を考えようとしたものの、うまくま
とまらない。
 それでも、多少ながらも歩く元気が出てきたので、立ち上が
って着物の汚れを払っていた時だった。
 すぐ近くの茂みが音をたてたので、風香は警戒心もあらわに
その方向を見た。
 下草の間から顔を出したのは、野うさぎだった。
 まだ子供なのか小さいながらも、漆黒の目をくりくりさせて
現代からやってきた少女を見つめていた。
 あっ……。かわいい!ぬいぐるみみたい。抱きしめて撫でた
ら気持ちよさそう。捕まえられるかしら?
 野うさぎと目が合った瞬間、かわいいものに目がない風香の
理性はほとんど吹き飛んでいた。
 疲れも忘れて、忍び足で近づき始めたからである。
 子供のうさぎは警戒心が薄いのか、その場から動くことなく
風香の姿を大きな目に映し続けている。
 大丈夫よ。怖くないから。ちょっと撫でさせてくれればいい
だけなんだから。本当にかわいいのね。うさぎって。
 心の中で言い聞かせながら、あと二、三歩のところまで近づ
いた時のことだった。
 突然、子うさぎは森の奥へと身を翻した。
 慌てて飛びついた風香だったが、その腕の間をすり抜け、逃
げようとする。
「待って!大人しくしててよ!何もしないから!」
 口で言って通じる相手とはとても思えなかったが、少女はか
まうことなく叫びながら立ち上がると、後を追った。
 深い下草が足にからみ、木の枝が垂れ下がって何度となく顔
に当たったが、夢中になっているので止まったりしない。
 子供のうさぎの足が遅いので、手を伸ばせば捕まえられるか
もしれない。
 そんな希望が、あまり深入りすると戻れなくなるかもしれな
いという冷静な判断を押し退けていたのも一因だった。
 あれほど強かった日差しが、かなり弱く感じられるようにな
った、その時のことだった。
 草履に包まれた足が突然宙を蹴ったかと思うと、風香の小さ
な体は自然にできた大きな穴の中に落下していた。