第5話 今を全力で生きるんだ
                            
 風香にとって永遠に続くように思われた逃亡劇が小休止した
のは、山間の小さな水車小屋まで来た時だった。
 あまり息を切らした様子を見せずに海若が立ち止まったかと
思うと、漢語でこう言ったからである。
「ここまで来ればとりあえず大丈夫だ。少し休もう。風香が限
 界みたいだからな」
「そのようね。でも、本当に大丈夫なの?」
「ああ。武藤の領地は抜けた。ここはもう別の地頭の領地だ。
 誇りばかり高いあいつが他の地頭に頭を下げて、捜索を頼む
 わけないからな」
 完全に意味を理解したようには思えなかったが、安心したの
だろう。
 水車小屋の壁に寄りかかって、ようやく表情を緩める。
 ジルベールのその隣に付き添ったが、こちらは相変わらずの
仏頂面だった。
「ところで風香。大丈夫なのか?」
「あ、あまり……。運動あまり得意じゃなかったから……」
 二人の西方人とは対称的に、未来から飛ばされてきた少女は
息も絶え絶えだった。
 作ったばかりのコスプレ衣装を汚すのが嫌なので、背中を丸
めて両膝に手を置いて、呼吸を整えようとしていた。
「お前、どこか悪いんじゃないよな?」
「まさか。体の作りが違うのよ。たぶん」
「つくづく変な奴だな。ま、そう慌てるなって。もう走らなく
 てもいいからな」
 風香は何も言わなかった。
 今までに体験した事が無い程の疲れが全身を締め上げ、言葉
を完全に遮っていたからである。
 それを呆れたような表情で見つめていた海若だったが、ふと
思い出したように漢語でつぶやく。
「しかし、逃げたのはいいが全員目立ち過ぎだな。特にあんた
 たちは<鬼>に間違えられたぐらいだ。なんとかしないとい
 けないな」
「なぜあたしたちが<鬼>に間違えられないといけないの?大
 都では少し珍しがられるぐらいだったのにここでは……」
「この国の連中は西方からの人間を見た事が無い。黒髪に黒い
 目でなければみんな<鬼>なんだ。それだけは覚えていてほ
 しい」
 夜目にも鮮やかな金色の髪に手をやって、エリアノールは何
かを堪えるような表情を浮かべていた。
 誇り高き貴族令嬢の自慢の一つは、先祖がノルマン人である
ことを示す金髪碧眼だったが、それが裏目に出るのは苦痛以外
何物でもなかった。
「というわけで、変装用の着物を探してくる。エリアノールた
 ちはこの小屋の中で待っててくれ。風香、俺は変装に使う着
 物を調達してくる。ここでおとなしくしてるんだ」
 最初は漢語で、続いて日本語で一気に言うと海若はそのまま
身を翻そうとしたが、着物を掴まれて転びそうになった。
 捨てられた子猫のような表情をした風香だった。
「お、お前なあ。そんな顔することないだろ?」
「だってわたし、エリアノールさんたちと話ができないのよ。
 せめて一緒に連れて行って」
「駄目だ駄目だ。そこらのガキより体力が無いのに連れて行っ
 たら足手まといになるだけだ。死にたくなければおとなしく
 してろ」
 海若にしてみれば、少し強い口調で注意しただけだったが、
効果は絶大だった。
 未来からやってきた少女は衝撃を受けた様子で、簡単に手を
離したからである。
 そうだったわね。この時代って、現代より簡単に人が死ぬは
ずだったわ。牢屋から抜け出した時だって、わたしが何とかし
なかったら……。
 突然こみ上げてきた根源的な恐怖に、風香は思わず自分の体
を抱きしめていた。
 運が悪ければ、今頃ただの死体となって転がっていたかと思
うと恐ろしくてたまらなかった。
 もう少し、自重しないといけないわね。海若さんは足手まと
いを承知で助けてくれるんだから。            
 恐怖は依然として心の奥に潜んでいたが、手を下ろした風香
はゆっくりと共に逃げてきた二人の異国人の方に向き直った。
 金色の髪を持つ女性……エリアノールと目が合ったので、い
つものように笑って見せたが、警戒しているのか友好的な雰囲
気は生まれなかった。      
 困ったわね。言葉が通じないんじゃ、何もできないわ。仲良
くなりたいのに。だったらこれはどうかしら?
 それでも、風香はあきらめなかった。
 身振り手振りで自分の思いを伝え始めたからである。
 最初は半ば無視していた令嬢だったが、無邪気な笑みを何度
も向けられては逆らえず、そっとジルベールに耳打ちする。
「この子、何をしたいのかしら?」
「おそらく、私たちと友好を確認したいのでしょう。悪意があ
 るわけではありません」
「でも、信じられるのかしら?突然鏡の中から召喚された、遠
 い未来から来た子なんて」
「私は信じて良いと思います」
 頼りになる従者の言葉は、いつものように素っ気なかったが
エリアノールの心を動かすのには十分だった。
 少女が手を休めたのを見ると、その小さな肩にそっと手を置
いたからである。
 一生懸命に意志を伝えようとしても反応がないので、不安が
込み上げつつあった風香だったが、驚いて顔を上げる。
「あの……。わたしの言いたいこと、わかりますか?わたし、
 あなたたちと仲良くなりたいんです。これから付き合うこと
 になるから、少しでも仲良くしたいんです」
 エリアノールは小さくうなづいて、微笑して見せた。   
 言葉は分からなくても言いたい事はわかる。
 そう伝えたいことに気づいて、風香の胸が熱くなる。
「とにかく、よろしくお願いします。足手まといかもしれませ
 んけど、がんばるようにします」
 顔を真っ赤にしながらも、深々と頭を下げた風香だったが、
後にこの時の事を悔恨と共に思い出すことになるとは思っても
みなかったのだった。   
                            
 海若が戻ってきたのは、東の空がぼんやりと明るくなって、
夜気が緩んできた頃のことだった。
 水車小屋の壁に寄りかかっていた風香だったが、その姿を認
めると弾けるように体を起こした。
「悪い。遅くなった。異国の二人に合う大きさの着物が見つか
 らなかったんだ。でも、これでなんとかなるはずだ」
 日本語と漢語まぜこぜで言い訳すると、海賊の頭領は行商の
ように背負っていた包みを下ろすと、中身を広げて見せた。
 そこには色々な種類の着物が畳まれずに丸められていた。
「これ……まさか、盗んできたんじゃないんですか?」
「買おうにも金が無かったからな。しかし、裕福そうな家を狙
 ったから大した事はないぜ。いくら俺でも貧乏人から盗むよ
 うな真似はしない」
 そう言って海若は快活に笑ったが、風香が納得していないの
に気づいて、すぐに真顔に戻った。            
「これしか方法は無かったんだ。まずはこれを着て変装するん
 だ。後の事はそれから話す」
 低い声で指示すると、着物と帯をまとめて押しつけてくる。
 釈然としないまま受け取った風香だったが、それが小袖とい
う庶民の女が着る着物なのに気づく。
「これを着るの?」
「ああ。お前さんは小さいけど女だからそれで十分だ。問題は
 異国から来た二人だな。エリアノールに合う小袖なんて無か
 ったし、男物で我慢してもらうか」
 未来から来た少女の小さな抵抗も、すでに別の事に頭を悩ま
せている海若にはまったく通じなかった。
 思わず頬を膨らませかけたが、すぐに止める。
 郷に入れば郷に従えってわけね。文句は言えないわ。それに
いつまでもこの姿でいたらまた化け猫扱いされてしまうわ。
 そう思うのと同時に、風香は渡された小袖などを持って水車
小屋の中に入ると、手早く着替えを済ませた。
 小さい時に日本舞踊を習っていた事もあって、着物には馴染
んでいたので戸惑いは少なかった。
 これで大丈夫ね。でも、まさかこんな形でもう一度着物を着
る事になるなんて思わなかった。日本舞踊を止めてもうかなり
になるし。
 脱いだコスプレ衣装を丁寧に畳みながら、風香は思った。
 おばあちゃんが亡くなったからね。それに、お母さんもあん
まりいい顔してなかったし。ところで、この衣装どうしたらい
いのかしら?
 思い出に耽りそうになった少女だったが、ふと我に返ったの
は、衣装を全て畳み終えた時のことだった。
 持ち帰りたいわね。始めて作ったオリジナルだし、まだほと
んど着てないから写真も撮ってないし。でも……。
 畳んだばかりの衣装に手を当てて、風香は泣きかけていた。
 突然過去の世界に飛ばされ、意味もわからないままここまで
来たものの、俄に心細くなってきたのである。
 どうして、こんな事になったのかしら?わたしは何もしてい
ないのに。ただ、衣装が乱れたから鏡に向かっただけなのに突
然飛ばされて……。こんな事ってあっていいの?      
 アダムには<運命>という言葉で片づけられてしまったが、
風香は当然ながら納得していなかった。
 戻れるものなら今すぐにでも戻りたい。
 そう思いながら、込み上げてくる涙を堪えていた時だった。
「なんだ、ここにいたのか。着替えは終わったのか?」
 突然背後から声をかけられた。
 先程とは違う着物姿の海若だった。
「エリアノールたちの着替えが終わったら出発するぞ。武藤の
 領地は抜けたけれど、本拠地までかなり距離はあるからな」
 風香は答えなかった。
 ただ、コスプレ衣装を前にして泣きそうな表情をしているだ
けだった。
「どうしたんだ?さっきは食ってかかってきたくせにさ」
「……ごめんなさい。ちょっと思い出に耽ってただけだから」
「なるほど。そういう事か。だったらいいことを教えてやる。
 まずは今を全力で生きるんだ。先の事とかは考えるな」
 弾かれたように風香は顔を上げた。
 それを見て、海賊の頭領は真剣な表情で続ける。
「もっといいのはお前さんが今までいた時代の事なんか忘れて
 しまうことだ。そうでないと、失敗する。忘れるなよ。小さ
 な失敗でも死につながるからな」
「そんな……。忘れることなんてできないわ。悲しいこともつ
 らい事もあったけど、生きてきたんだから」
「それでは駄目なんだ。俺は警告したからな」
 最後はどこか突き放すような言い方だった。
 それに少女が呆然とするよりも早く、海若はそれ以上何も言
わずに小さな小屋から出て行った。
 駄目だといわれても、わたしにはできないわ。そんなこと。
この時代に飛ばされたのは<事故>みたいなものなんだから。
いつかきっと、戻るんだし。
 しかし、それはいつになるのだろうか?
 心の奥から冷めた声が聞こえてきて、風香は思わず耳を塞ぎ
そうになった。
 もし戻れなければこの時代に骨を埋めるしかない。海若はそ
こまで考えて警告してきた。ここは大人しく従うしかない。
「わかってるわよ、そんなこと」
 黙っているとおかしくなりそうな気がして、ついに口を開い
てしまった。
 自分でも驚いたものの、わずかに安心する。
 やっぱり、行くしかないわね。海若さんに見捨てられたら、
わたし生きていけるはずがないわ。でも、その前に今まで着て
きたコスプレ衣装どうしたらいいかしら?
 立ち上がろうして、風香は今まで意識的に避けてきた問題が
目の前に立ちはだかったのに気づいた。
 現代ではスポーツバッグに入れてきた程ボリュームのある衣
装だったので、持ち歩けそうになかった。
 ここに、置いていくしかないわね。いつかもう一度、戻れる
時がくるはずだから。せめて見つからないように……。
 小屋の片隅に古い葛篭(つづら)が幾つか転がっているのに
気づいて、少女はすぐに決断した。
 一番大きな葛篭の埃を払うと、そこに衣装や小道具を丁寧な
手つきで仕舞い始めたからである。
 まだほとんど着ていないオリジナルの衣装とこのような形で
別れるのは正直つらかった。
 しかし、無理に持っていこうとしても海若がいい顔をすると
はとても思えなかった。
 これしか方法は無いのよ。これしか。それに、もう一度ここ
に来る事ができるかもしれないんだから。
 最後に小道具を入れて、風香の手が止まった。
 後は他の葛篭の中に紛れ込ませてしまえば終わりだったが、
その最後の作業がどうしてもできなかった。
 駄目ね、わたしったら。ここから動けないじゃない。さあ、
早く蓋をして隠しておかないと……。
 なんとか動かした右手の甲に、ぽとりと涙がこぼれた。
 理不尽としか言いようが無い運命に巻き込まれてしまった自
分に対する涙だとわかったが、止める事はできなかった。
 何かを振りきるように葛篭を閉じると、その上に突っ伏して
盛大に泣き始めてしまったからである。
 その声は外で待っていた海若たちにも聞こえていたが、三人
とも何も言わず、悲しみの発作が収まるのをただ待ち続けてい
るのだった。