第4話 月夜の脱出行
                            
 召喚されてきた少女と話をしていた海賊の青年が呼びかけて
きたのは、ジルベールがようやく落ち着きを取り戻した時のこ
とだった。
 後悔に満ちた表情で完全に砕けた二つの手鏡を見ていたが、
エリアノールの問いかけるような視線に気づいてこう答える。
「申し訳ありません、エリアノール様。儀式は失敗です。もう
 一度、鏡を手に入れないと儀式はできません」
「だったら、召喚されてきたのはいったい何なの?あんな奇妙
 な人間、いるわけないわ。悪魔の手先ではないの?」
「いいえ。違うと思います」
 確信に満ちた表情で、従者は断言した。
「あの者には悪魔の持つ禍々しさがまったく感じられません。
 おそらく、我々の知らないどこかから来たのではないかと思
 われます。少なくとも、危険はありません」
 話をしている内に、ジルベールの様子はいつもと変わらなく
なっていた。
 それでも、元々異形のものに弱いエリアノールの不安は消え
ない。
「どうしたらいいのかしら?海賊はとにかく、召喚されてきた
 少女と一緒になりたくないわ。ジルベール、なんとかここを
 脱出できないの?」 
「いえ、申し訳ありませんが、私の策は尽きました。ただ、あ
 の海賊が何か策を持っているはずです。ここは呼びかけに答
 えた方がいいと思います」
 諭すように言われて、貴族令嬢は反対側の壁際にいる海若と
謎の少女の方を見た。                  
 元来せっかちな海賊の青年は、自分の呼びかけに答えない二
人に苛立ちを隠せないようだったが、少女は立ち上がってエリ
アノールの方に歩いてきた。
 思わず身構えたが、猫の耳を持つ少女はそのまま後ろ側に回
ると不器用な手つきで両手を縛っていた縄をほどいた。
「あ……ありがとう。あたしの言ってることは、わかる?」
 北フランス語で礼を言いかけて、慌てて漢語に直したエリア
ノールだったが、謎の少女は少し悲しそうな表情をして首を振
っただけだった。
 世にも奇妙な姿をしていたが、まだ子供なのだろう。
 黒曜石のようにきれいな瞳と、愛嬌のある顔だちがかたくな
になっていた令嬢の心を溶かしてゆく。
「ジルベール、やっぱりあなたの言う通りにするわ」
「御意。では、さっそく始めましょう」
 主人の言葉を待っていたジルベールの行動は早かった。
 すぐに立ち上がると、海若の元に歩いていったからである。
 エリアノールもそれに続こうとしたが、少女が不安そうな表
情を隠せないでいるのに気づくと、そっとその肩にしなやかな
手を置いて微笑した。
 貴族の令嬢にふさわしい、気品のある笑顔にさすがの少女も
驚いたようだったが、すぐに無邪気な笑顔で返すと二人揃って
海若たちと車座になる。
 しばし、お互いを確かめるように視線を交わしていたが、や
がて海若が故郷の言葉で口を開く。
「まずは自己紹介、といきたいところだがこっちの娘さんはこ
 の国の言葉しかわからないから最初に俺が話しておく。この
 子の名前は風香。こんな格好をしてるけど、普通の小娘だ。
 どうも先の時代から来たらしいな」
「先の時代?どうしてそんなことがわかるの?」
「俺と話をしてる時、<今>がいつなのか確かめようとしてい
 たし、今の執権の名前を知っていた。とすれば、それしか考
 えられないだろう?」                 
 エリアノールとジルベールは、顔を見合わせて、すぐに同じ
結論に達していた。
 <海賊の頭領>であるこのやたら声の大きい青年は、思った
以上に頭の回転が早い。
 それは、この国のことが右も左も分からない二人にとって強
力な利点であることは間違いなかった。
「あ、名乗るのを忘れていたわね。あたしはエリアノール。ヴ
 ォーエルグ家の娘といっても通じないのが悲しいわね。こっ
 ちにいるのが従者のジルベール」  
「ああ。よろしく」
「それより、どうやってここから脱出するのだ?ここには兵士
 が多数いるはずだ」
 海若の返事を無視するかのように、事務的な口調でジルベー
ルがきいた。
 内心むっとした海若だったが、すぐに収めると、
「幸い、西方から来たあんたたちが恐いのか、この牢屋は監視
 されていない。だったらそんなに難しくない。ここを出て、
 一度振り切れればなんとでもなる」
「でも、入り口にには閂(かんぬき)がかかっているわ。これ
 をどうするの?」
 そう言って、立ち上がったエリアノールは、格子の隅にある
出入口に手をかけて揺さぶった。
 海若の言う通り、篝火が焚かれているだけで人影は無かった
が、丈夫な閂のせいで出入口の扉は動くだけでとても開きそう
に無い。
「そうやっただけで動くなら問題無い。先代頭領から教わった
 方法があれば抜け出せる。よし、そろそろ始めるか」
 驚いたような表情を浮かべる令嬢にかまわず立ち上がった海
若だったが、誰かに袖を引っ張られて振り向いた。
 そこでは、一人蚊帳の外に置かれた風香が心細そうな表情を
浮かべていた。
「悪い。お前さんのことを忘れてたな。大丈夫。今から脱出す
 る。俺があそこにいるエリアノールと格子戸の閂を外す。風
 香は兵士に見つかった時効果的なものがあったら用意してて
 くれないか?」
「え?そんなもの持ってきてないわ。着替えたばかりで」
「そう慌てなさんなって。ちょっと訊いただけだからな」
 なおも反論しようとした風香だったが、海若が子猫を可愛が
るように頭を撫でたので、思わず手を離してしまった。
 頼りにされても困るのに。スポーツバッグの中なら色々入っ
てたけど、今持ってきたのはこのポーチだけなんだから。
 思わず溜息をついてしまった風香だったが、とりあえずポー
チの中身を確かめてみる。                
 通話料の支払いに四苦八苦している携帯電話、家の近所で買
ったフラッシュ付きの使い捨てカメラ、住所交換用の使い古し
のメモ帳とシャープペンシル。
 小さなポーチに入っていたのは、これだけだった。
 やっぱり、こんなものよね。使えそうなものなんて無いじゃ
ない。携帯なんて充電済みでも使えないし、筆記用具も意味無
いし。とにかく、お荷物にならないようにするしかないわね。
 ちょこんと牢屋の床に座り込んだまま、再び溜息をついてし
まった時のことだった。          
 使い捨てカメラをポーチの中に戻そうとして、突然閃いた。
 あ!これ使えるわ。フラッシュならば目潰しになるかも。知
ってても眩しいぐらいなんだから、何も知らないこの時代の人
たちなら、隙ぐらい作れるかも。
 ようやく自分にも出来る事を見つけて、風香は多少興奮しな
がらフラッシュを充電するボタンを押したままにしておいた。
 後は危なくなった時にシャッターを押せば、手軽な目潰し攻
撃の完成だった。
 突然、若い女性の喜びの声が耳に届いた。
 その方向を見てみると、自分たちを閉じ込めていた戸口の閂
が見事に外されていて、エリアノールがこの<奇跡>を神に感
謝しているところだった。
「いったい、どうやって外したんですか?」
「なに、この手の閂は二人いれば意外と簡単に外れるんだ。だ
 いたい見張りもいないなんて不用心過ぎるぜ。この海若様も
 なめられたものだな」
「はあ。それより、脱出しないんですか?」
「もう少し感謝してくれると嬉しいんだけどな。まあいい、お
 い。お祈りは後だ。抜け出すぞ」
 余程信心深いのか、なおも祈りを止めないエリアノールを促
して、海若は周囲の様子を確認しながら牢屋から出た。
 エリアノールと無言の行を決め込んだジルベールが続き、最
後に風香が外に出る。
 満月の光が低く照らしていて周囲は明るかったが、その光が
届かない場所は今まで見たことも無いような真の闇だった。 
 本当に、遠い過去まで来てしまったのね。戻れるのかしら?
現代に。とにかく行くしかないわ。
 一瞬だけ、初めて過去に飛ばされた場所を振り返った風香だ
ったが、感傷にふけっている場合では無かった。
 スカートのポケットに使い捨てカメラを隠したまま、海若た
ちと共に歩き始めたからだった。
                            
 牢屋の外は、満月の光と篝火で意外と明るかった。
 周囲の物がよく見えるのが風香には幸いだったが、夜陰に乗
じることは不可能なので、逃げるのは難しかった。
「見張りの兵士はいないの?」
 慎重に光の届かない場所だけを歩きながら、エリアノールが
小さな声できいた。
「夜中はあそこの見張り台にいるだけだ。たいてい、この時間
 ならば寝ている」
「それでよく見張りが務まるわね」
「昨年、大陸から大元国の軍勢が攻めてきたんで海岸は警戒が
 厳重だけど、ここは内陸だからそれ程ではないんだ」
 しかし、油断はできないな。
 自ら先頭を歩きながら、海若は自分を戒めた。
 もし、見張りが目を覚ましたら強行突破するしかない。兵が
集まる前にここを出られれば、簡単には捕まらないだろう。わ
だつみ様の加護を信じるしかないな。
 そう思いながら、一瞬だけ振り向く。
 すぐ後ろには風香、エリアノールと続き、ジルベールが黙っ
て殿を務めていた。
 一番不安なのが風香だな。間違いなく修羅場の経験はない。
いざとなったら強引に引っ張るしかないだろう。
 それが弱きを助け、強きをくじく海賊の頭領としての務めだ
と思いながら、慎重に歩き続けていた時だった。
 突然、見張り台で動きがあったかと思うと、緊急事態を告げ
る木鐸が鳴り響いた。
 静かな月夜を貫く乾いた音に、海若たち四人は、驚いて顔を
見合わせる。
「走るぞ!」
 後先を考えている余裕は無かった。
 最初はすっかり使い慣れたこの国の言葉で、続いて故郷の言
葉で指示を飛ばすと、海若は思い切り地面を蹴った。
 月明かりに浮かび上がる正門に向かって全力で走る。
 右も左も分からない風香・エリアノール・ジルベールもそれ
に続いたが、再び立ち止まるまで時間はかからなかった。
 すぐ横に見張り台のある門を、詰所から駆けつけてきた兵士
たちが固めつつあったからである。
 手には槍や刀が握られ、強行突破すれば門をくぐる前に絶命
するのは間違いなかった。
「くそっ。なんてこった。早くしないと武藤とかまで起きてき
 てしまう。そうだ、風香。頼んだものは用意できてるか?」
「え?う、うん。一応……」
「だったらやってくれ。ここを突破すれば逃げきれる」
 ポケットに隠した使い捨てカメラに手をかけたままだった風
香だったが、目の前にいるのが本物の<兵士たち>であること
に気づいて、かなり動揺していた。            
 もし効果がなかったら殺されてしまう。
 一瞬そこまで思い詰めたが、やがて決然として顔を上げた。
 ここを突破しなくては、現代に帰ることはできない。
「おい、早くしろ!」
「うん。目を閉じて!」
 高い声で宣言するのと、ポケットから取り出した使い捨てカ
メラのシャッターを押すのがほとんど同時だった。
 十分過ぎるほど充電を済ませていたカメラのフラッシュが焚
かれ、正面の兵士たちの目を貫く。
 不意をつかれると、現代の人間でも驚くほどの威力がある人
工の白光である。
 真夏の太陽以上に眩しい光を浴びて、兵士たちは全員武器を
落としてうずくまってしまった。
「よし、逃げるぞ!」
 風香の言葉通りに目を閉じていた海若の行動は早かった。
 何が起こったのか分からずに呆然とするエリアノールたちを
促すように叫ぶと、一気に正門を突破したからである。
 兵士たちが両目を押さえて苦しんでいるのを見て罪悪感を感
じていた風香だったが、海若に引っ張られて正門をくぐる。 
 煌々と低い空にかかった満月が照らし出す中、現代から来た
少女と漢人の海賊の青年、そして西方から来た二人の異邦人は
ただひたすら田んぼの間に作られた狭い道を逃げ続けた。
 途中、追手が気になって何度も後ろを振り向いた風香だった
が、幸いなことに兵士たちの姿は見えなかった。
「ど、どこに向かって逃げてるの!?
 引っ張られる腕が痛かったが、少女は思わず声を上げた。
「とりあえず一浦の村は抜ける。それまで走れ!」
「う、腕がちぎれそうなのよ!離して!」
「馬鹿、お前の足じゃまた追いつかれる!死にたくなければ文
 句を言うな!」
「で、でも……」
 突然、海若が立ち止まったので、風香は転びそうになった。
 続けて文句を言おうと顔を上げたものの、月明かりに照らし
だされた青年の表情に気づいて、口をつぐむ。
 そこにいたのは、精悍で人のいい漁師ではなく、多くの部下
を抱えるならず者の首領だった。
「俺は海賊としての誇りにかけてお前を守る。文句は逃げきっ
 たらまとめて聞いてやる」
 低く押さえた声だったが、風香を黙らせるには十分だった。
 それを確かめて、海若は再び走り始める。
 引っ張られる腕が痛いのは変わりなかったが、現代から来た
少女は涙を滲ませながら我慢する。
 海若さん、わたしのことを命懸けで助けるつもりだわ。それ
なのにわたしったら文句ばかり。後で、謝らないと……。
 一連の光景を、エリアノールたちも見ていた。
 全力に近い速さで走っているので言葉は無かったが、考えた
いことは色々とあった。
 やっぱり、色々な意味でふしぎな子ね。小さな箱から強烈な
光を放って兵を足止めしたり、海若に文句を言ったり。あの子
は何者かしら?
 まったくといって程わからなかった。
 ただ、いざとなったら助けないといけない。
 それだけは確信していた。
 遠方に見える地頭の屋敷には大量の篝火が焚かれ、兵士たち
が続々と集まり始めていたが、依然混乱しているのだろう。
 追手が出てくる気配はなかった。
 それに乗じるかのように、四人の脱獄者たちは月明かりの元
自由への逃走を続けるのだった。