第3話 召喚された先は
                            
 地平線の果てまで続くような、広大な草原だった。
 静かに風が吹き抜けては緑の波がざわめき、穏やかな日差し
が差し込む中に。
 一人の少女が眠っていた。
 頭からは白い猫の耳が顔を出し、メイド風の衣裳からもしっ
ぽが伸びたていたが、体を多少丸め寝息をたてるその姿は、ま
るで世界中に祝福されているかのように幸せそうだった。  
 一段と、強く風が吹き抜けた。
 少女のフリルのついた衣裳が揺れて、無意識の内に伸びた手
がそれを押さえたが、やがて思い出したようにゆっくりと目を
開く。
 どこか惚けたような表情で、辺りを見回す。
 ここは、どこかしら?わたし、なんでこんなところにいるの
かしら?確か、ベイウィングの更衣室で鏡を見てたら突然鏡が
波打ってそれから……。
 少女……風香が突然我に返ったのは、その時だった。
 急いで立ち上がると、胸元に手を当てて、記憶をたどる。
 変なの。全然思い出せないわ。衣裳が乱れて鏡に向かったの
は覚えているんだけど。いったい、どうなってるのかしら?鏡
の中に落ちてしまったのかしら?
 自分でもおかしなことを考えていると思ったが、それが一番
真実に近いような気がしてならなかった。
 駄目ね、何も思い当たらないわ。本当にどうしたのかしら?
 夢を見ているわけでも無いことに気づいて、思わず大きな溜
息をついてしまった時だった。
「ここにいたのか。<風の少女>よ」
 突然、聞き慣れない男性の声が耳に届いた。
 ふわりと切り揃えた髪を揺らして振り向いてみると、神話時
代のような白い衣裳に長身の体を包んだ壮年の男性が、自分の
すぐ隣に立っていた。
 ギリシャ彫刻のように端正かつ威厳に満ちた横顔は、着てい
るものによく合っていたが、その顔に覚えはなかった。
「……?あなたは?」
「きみをここへ呼んだ者だ。<風の少女>であるきみの力を借
 りたくて召喚させてもらった」
「<風の少女>って、わたしのこと?確かに名前は風香だけど
 わたしはただの高校生で……」
「いや。間違いない。きみには<風>の力が宿っている。私自
 身を含めて大きな運命の力が動き始めているのだ」    
 ふと昔プレイしたファンタジーRPGのオープニングを思い
出した風香だったが、反論したりはしなかった。
 男性の声は高くもなく、低くもなく非常に中性的で、心に直
接響いてくるせいもあった。
 まるで、この草原を吹き抜ける風のように。
「実は私は非常に大きな<力>を持っている。その気になれば
 世界を自在に操ることもできる程の力だ。それを狙って、私
 の<子孫>が動き始めた。それをきみの持つ<風>の力で止
 めるのだ。その<子孫>は簡単には消せない傷を心に負って
 世界を誤った方向に導こうとしている」
「そんな。わたしには、そんなことできません。わたしはただ
 の高校生でそんな大それたものじゃ……」
「残念ながら、運命がそう告げているのだ。それにはきみも、
 私でさえも逆らえない」
 高圧的で、有無を言わさない口調だった。
 突然わけのわからない場所に放り出され挙げ句、運命を背景
にした選択を迫られて、風香はすっかり混乱してしまう。
「で、ですからその……。どうして、<わたし>じゃないとい
 けないんですか?それが、<運命>なのですか?」
「そうだ。とにかく、従うしか道は残されていない。そうでな
 ければ君は元の世界に戻れないのだからな」
 その言葉に、風香の頭の猫耳がぴょこんと動いた。
 確かめるように、聞き返す。
「それって、つまり協力しなければ、わたしはこの草原に取り
 残される、ということですか?」  
 彫刻を思わせる男性は、小さくうなづいただけだった。
 その意味するところに気づいて風香は、自分が逃れられない
<何か>に囚われていることに気づく。
「そんなの勝手過ぎます。それに、わたしにはできません。と
 にかく、今すぐ元の世界に戻してください」
「何度言わせる?それはできない」
 男性の表情に、苛立ちのような浮かんでいた。
「もし己の運命を受け入れたくないというのなら、ここに死ぬ
 までいることになる。水も、食べ物も無い世界だ。死ぬ間際
 の狂気は壮絶なものになるだろう」
「あなたは……人の命をなんだと思ってるんです!」
「いちいち考えていては世界は救えない。それに、君が拒めば
 最悪の場合、世界は破滅する。それでも拒むのなら、私も無
 理にとは言わない」
 これが最後だと言わんばかりだった。
 こみ上げてくる絶望感に、風香は泣きたくなったが、こんな
所で野垂れ死にするのだけは避けたかった。
 これが<運命>。ゲームなんかでよく使われてるけど、自分
がそうなるなんて。でも、やるしかないわ。前に進まなくちゃ
何も始まらない。
「わかりました。やってみます。そうすれば、元の世界に戻れ
 るんですか?」
「わからない。私もそこまでの運命は読めない。ただ、これだ
 けは言えるだろう。運命というのは、自分の力で幾らでも変
 えられるものだと」
「だったら、やってみます」
「私の名前はアダムということにしておく。本当は名前など無
 いのだが、名前が無いと不自由だろう。私の正体はいずれわ
 かるだろうからここでは言わないでおく。ただ……」
「……?」
「私と出会ったことは、他の誰にも言わないで欲しい。私の子
 孫に知られたくない」
「あなたは、本当に何者なんですか?突然わたしを召喚してお
 いて……」
「とりあえず<智慧>そのものだと言っておこう。私の正体が
 わかる時に大きく運命が動くかもしれぬがな」
 素っ気なくアダムが答えた時だった。
 突然、かなり強い風が吹き抜けた。
 慌ててフリルの付いたスカートを両手で押さえた少女だった
が、両足が地面から離れてしまったのでびっくりした。
 ど、どうなってるの!?飛ばされる!
 姿勢を立て直そうとしたものの、猛烈な風に翻弄されては上
も下も分からない。
 そうこうするうちに、すっと意識が遠くなっていったかと思
うと、風香の小さな体はいずこへと消えていったのだった。
         
 その人影を、最初に受け止めたのは海若だった。
 思わず身を乗りだしたところに、正面から飛び出してきたの
である。
 とっさに両手を使おうとしたものの、縛られていてはかなわ
ず、二人とも見事に床に転がってしまう。
「痛てえな。くそっ。いったい誰だ?突然飛び出してきやがっ
 て。もう少しちゃんと出てこれないのか!?
 若き海賊の頭領らしからぬ無様な姿を晒してしまったので、
八つ当たり気味に大声を上げた海若だったが、続く言葉を飲み
込んだのは、その時だった。  
 自分に覆い被さってきたのが小柄な少女であることに気づい
たからである。
 世にも珍妙な服装をして、頭には猫の耳が顔を出し、同じく
白い尻尾が生えた……。
「お、おいお前。起きろよ。俺にのしかかるなんていい度胸し
 てるぜ。化猫か?もしかして」
 恐怖を隠しきれない表情で、エリアノールが北フランス語で
何かをつぶやいたのはその時だった。
 すぐ隣にいたジルベールに何かを問いかけたが、従者の青年
はいつになく青白い顔で、主人の質問にも答えようとしない。
 信じられないような話だが、冷静沈着なこの青年は一時的に
しろそのままの姿勢で気を失っていたのである。
「まあ、化猫にしては愛嬌があり過ぎるな。人に祟るどころか
 可愛がられそうだ。おい、起きろよ」
「……お母さん?もう少し寝かせて。昨日は遅かったから」
「寝ぼけてる場合か!?こら、しゃきっとしろ」
 床に転がったままなので、必死になって覆い被さった少女の
体を揺らした海若だったが、効果は予想以上だった。
 ぐらりと揺れたかと思うと、頭から床に落ちてしまったから
である。
 それで目が覚めたのか、少女はびっくりして飛び起きる。
「痛ーい。またベットから落ちちゃった。なんでわたしって寝
 相悪いのかしら……え?」
 反射的に辺りを見回した少女……風香だったが、自分のいる
場所、そして周囲にいる人間に気づいて、丸い目を一段と大き
く見開いた。
 悲鳴を上げようとしている。
 瞬時に気づいて、海若は考えるよりも先に口を開く。
「さてと、目が覚めたところで話を聞かせてもらおうか?あん
 たはいったい何者なんだ?異界から召喚された化猫か?」
「ち、違います。わたしはただ、更衣室で着替えをしていて突
 然、鏡の中に落っこちてそれから……」
 風香の脳裏に、全ての記憶が蘇ったのはその時だった。
 どこかの草原で会ったアダムは、こう言っていた。
 自分の持つ力を狙って動き始めた子孫を止めて欲しいと。
 ということは、この中にいる誰かがアダムの子孫、というこ
となのかしら?でも、それ以前にここはどこなのかしら?  
「おい、化猫の娘さん。話は後だ。頼みがある。俺の両手を縛
 ってる縄をほどいてくれないか?」
 呆然としてしまった風香だったが、突然青年の声が耳に届い
て我に返った。
「は、はい。どうして、縛られてるんですか?」
「お前なあ。状況を見ろ。お前さんはよりによって牢屋の中に
 召喚されてきたんだぜ。まあいい、とにかく頼む。化猫のく
 せに言葉が通じるなんて思わなかったぜ」
「化猫?」
 青年……海若の後ろに回って縄をほどこうとした風香だった
が、今更のように聞き返した。
 その時になって、自分がコスプレをしたままなのに気づく。
「これはその、コス……じゃなくて仮装です。わたしはただの
 人間です」  
「突然鏡の中から召喚されてきて、<ただの>人間とはとても
 思えないんだがな。よし、うまいぞ。これで自由になった」
 風香が縄をほどくのと、海若が喜びを表わすかのように両手
を突き上げたのは、その時だった。
「言い遅れたけど、俺は馬海若。かつては大陸の人間だった。
 お前さん、名前は?」
「風香。東野風香」
「ふうか?どういう字を書くんだ?」
「風、香ると書くけど」
「ほう。なかなか洒落た名前だな。どこの出身なんだ?」
 そう言って、海若はしまったというような顔をした。
 答えられるはずがない。
 鋭い勘で、そう気づいたからである。
「悪い。それより聞きたいことが山ほどあるだろう?俺でよけ
 れば答えてやるぜ」  
「あなたは、わたしが突然飛ばされてきたのに、驚かないんで
 すか?あそこの人たちのように」   
「もう十分に驚いたさ。だからやる事がある。あんたの正体を
 知る事と、ここから脱出する事だ。このままだと、俺たち全
 員夜が明けるころには太宰府に引っ張られてしまうからな」
「太宰府?」
 突然、日本史の時間で聞き慣れた地名が飛び出してきて、風
香は作り物の猫耳を揺らした。
 気配から<過去>に飛ばされたのだけは感じていたが……。
「ああ。鬼よりも怖い役人がいる太宰府だ。俺は海賊の頭なん
 で仕方ないが、あそこにいる二人もお前さんも、たぶん首を
 切られるだろうな。覚悟した方がいい」
「そ、そんな。わたしはただ……」
「そうならないようにする為にも、ここから抜け出す必要があ
 るわけだ。というわけで、まずすることは?」
「えっと……。あの人たちは、いったい誰なんですか?」
 その場にあぐらをかいた海若だったが、予想以上にのんびり
した答えにつんのめりそうになった。
 頭を掻いて、わざとぶっきらぼうに答える。
「きれいな髪をした女性はなんでも、西方の貴族だそうだ。も
 う一人がその従者。お前さんをここに呼び出した張本人だ。
 一発殴るなら手伝うぜ」
「え、遠慮しておきます。それより、ここはどこなんですか?
 太宰府の近くなんですか?」
「ああ。歩いて一日ぐらいの所にある一浦というしけた村だ。
 ここはそこの地頭をしている武藤の屋敷の牢屋だ」
「地頭?」
 海賊の青年の言葉に、再び聞き覚えのある単語が混じったの
で、風香は日本史の授業を思い出していた。
「もしかして、今の政治の中心は鎌倉にあるの?北条時宗は知
 ってる?」                      
「おお。よく知ってるぜ。今の執権様だ。昨年大陸から攻めて
 きた大元国の軍を見事に追い返したからな。まあ、運も良か
 ったんだけどなって……どうしたんだ?」
 突然、向かい合った少女が驚いたような表情を浮かべたかと
思うと、今にも泣き出しそうになったので、海若は慌てた。
「ご、ごめんなさい。なんでもないわ。それより、脱出する方
 法を考えないと」  
「その気になってくれたのはありがたいが、そんな顔されると
 こっちも困るぜ。理由を話してもらえないか?」
「ううん。大したことじゃないから……」
 必死になって否定するものの、風香の表情は変わらない。
 どうにも中途半端な空気が二人の間に流れたが、こうしては
いられないと思ったのだろう。
 顔を上げた海若は、動かないでいたエリアノールたちに漢語
で自分の元に来るように言ったのだった。